七里ガ浜の公演が始ってから1日も休みのないまま9月に突入と思っていたら8月最後の日と9月になった今日、3週間ぶりの休日が取れ、掃除したり洗濯したり床拭きしたりまた洗濯したり模様替えしたり買い出しに出たり黙々総菜を仕込んだりといそいそ、芝居を観るとか映画を観るとかは仕事感覚なので休みの日には極力行かず、ゆっくり飲みたかった友人を誘ったりすることもたまにあるけれどこれまたなかなか腰が重く、むしろ仕事の合間の方がそうしたことには活動的になれる。
このところ4時間眠れば万歳の不眠気味なので早めにベッドに潜り込んで読書をしながら睡魔を待つ、仕事した日はどうしてもすぐに寝付けずなんとか昼までに眠りたいと焦るのがいつも、アルバイトの出勤もコーチングの現場も遅い時間帯なのですっかり昼夜が入れ替わってしまう、それでも日中に動かないと片付かないことも多く何より日光を浴びる時間がないと精神的にしんどいので、ようやく昼に寝てもムキになって日が暮れる前に起きる。
そんなふうを3週間も続けていたのだから寝溜めしても良いものだが、まずは日常のあれこれを機能させたい貧乏性、寝不足の頭でろくな料理が作れないストレス、床の汚れを視ぬふりしてmacの画面を注視するストレス、安い八百屋まで出向きたいのに近所の割高なスーパーで買い物するストレス、干して乾かす時間はあっても取り込む時間がなくて洗濯できないストレス、あれが切れたこれがないと買い物メモばかりが嵩んでいくストレス、犬が寝付くまで撫で続けていられないストレスなどなどを一気に解消すべく休日は忙しい。
自分に心境の変化があるわけじゃないのに物事がじりじりと変化していく流れを感じることがある、自分史上に残る朝方生活は3ヶ月ほどしか続かなかった、生活時間が変わると思考や嗜好も変わるのか、不意に昔の知人とのコンタクトが増えたり、これまで一線あるが如く距離のあった友人に急速に親しみを感じるようになったり、まさかこればっかりはあり得ないと思っていたことが起きたり、どうにもぶれようのない確信だったはずのことが揺らいだりする。
人は完成も完結もしないんだな、と思う。
そう思うから「あの時ああ言った、こう言った」的な拘りはナンセンスと承知だけれど、それが出てしまうときはそこに縋っているときで、そこにしか縋れないとなるとまあ大概は既にどうにもできない状態であることが多い、そのどうにもできなさが自分のものであればまったくマシだ、他人のそれにつまずくと一歩も身動きが取れなくなる、そんな時にさらさらと変化していく何かの流れを感じられるのはとても具合が良く、そういう時に「運命」という言葉を使えばいいんだと思う。
砂の彫像が風で少しずつ小さくなっていくくらいの、そういう変化を感じている最中だからこそ、自分の中の石っころみたいなものに気付いたりもして、いっそ河の流れにどぶんと投げ捨てるしかないのか、風よもっと吹けと願いながら、その実自分の掌にしっかりと握りしめていたりする、それは多分意地でも維持でもなく意固地というやつなのだけど、それが磨り減っていくと気付いてしまうとたちまちに悲しい、それだけはずっと掌にあって欲しい。
そしてそういう意固地は、どんなにきゅうと握りしめていてもいつか何かの力で指を引き剥がすように掌を開かれて、開いてみたらさらさらと砂が零れ落ちる、護るもののない拳はただ自分に負荷をかけるだけなのに、ただ力むだけでずっと拳を握っていたのかと唖然とし、もう指先なんか痺れちゃって感覚とかなくなってたのに、あの時掌を開いていれば、新しい何かを掴むことも、誰かと手をつなぐことも、落とさないよう救うこともできたのにと、護っていたつもりがただ拳を握った仁王立ちの役立たずで、さらさら飛んでった意固地の砂粒さえ果てしない砂丘の一掬いとなってもう二度と見つけられないと承知だ。
私はそれでもまだ拳を握ってるんだなあ。
多分、いつでも誰かをぶん殴れるように。
『母娘監禁・牝』、今月は
新橋・ロマン劇場にかかります。
9月13日〜19日、
上映時間はこちらでご確認ください。
- 2013/09/01(日) 06:08:47|
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