掲載や出版の充てがないまま書いていた長篇も気がつけば足掛け1年、あれこれ迷った構成もようやく落ち着きどころが決まり、あとはコツコツ書き足した部分の断捨離とタイトル、書き出したときは「愛のゆくえ(仮)」だったんだけどやっぱり今回も最終的に却下、ブローディガンの名作があるからというだけでなく、映画や演劇のタイトルとしてはアリでも小説の題としてはやはり冴えない。
これまでは一番時間がかかるのは演劇で、次が映画、書く作業が一番拘束時間が短いと決めてかかっていた、愛仮に関しては映画が一番早くて次が演劇、小説に一番時間がかかっているのだが、作られたものが残る時間で言えば小説か映画にだけその可能性があり演劇は跡形なく消え失せる、だからこそなんでもやれる、消失の美学だとも思う、映画が記録の美学だとすれば、小説の美学はなんだろう。
旧い友人が私の著作をごっそり「譲ります」とtwitterで挙げてくれ、引き取り手がいなかったら私にくれと言ったのだが幸い私とは知り合ったばかりの人が欲しいと名乗り出てくれて、代わりに私は笙野頼子をごっそり譲ってもらうことになり、それら書物の受け渡し会と称して飲み席を組んだ、朝方には何十年ぶりかのカラオケで「ひこうき雲」、新橋ロマン劇場での上映も女性客が多かったらしい、水丸こと信幸監督は洒落ものだったしな。
26年前の自分を誰かと共有できる親しみ、同級生とか幼なじみとかに感じるそういう感覚を「母娘監禁・牝」を観てくれた人に対して感じる、そこにあるのが私にとっての「自分」という記録だからだろう、観客にしてみれば26年前の姿とは大分違っている現在の私に感じる懐かしさもなければ映画に残された当時の私は観客それぞれの記録になり得ない、強いて挙げればそこに映り込んだ「あの頃」だけがそれぞれの記憶を結びつける。
ああわかった、小説は「執着の美学」だ。
時代であれ人物であれそれを書き記すための言葉であれ択び抜かれる、演劇や映画を作るときに許される感覚的なものは推敲の名の元に練り上げられて変質し、熟慮の上で択ばれたものしかそこには残らない、そうでないものを残さないため執拗に「本当に相応しいのか」「本当に私自身が択んだのか」と、ディティールだのシチュエーションだのエピソードだのキャラクターだの、文章を作り上げている一語一文字に至るまで際限なく自問を重ねる、その執着の行く末こそが小説じゃないのか。
ははあ、それらにはそんな美しさがある。面白いものだなあ。
- 2013/09/25(水) 01:30:33|
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