仕事部屋

おしなべて無価値である。

とうとう広告が出るまで放置してしまった。書くことないなあと思いながら書く、というような書き方が段々できなくなっている、twitterなどは相変わらず気軽に流せるのだけどそれと比べたときにブログというのは読み物を書く意識が強い、そうでない時期もあったはずなのだけど、それ以前に誰にもなんの義理もないブログなどどうであってもいいはずで、つまるところ書くこと自体の楽しみ方が変わってきたのかもしれない。

生活はすっかり夜勤バイトのリズム、勤務時間は21時からで0時前後から少なくとも2時間、暇であれば4時間も仮眠休憩がもらえる、午前3時に休憩を交代して朝6時まで、帰宅して朝食を済ませて眠りにつくのは大概朝の9時ごろで、休みの日でも0時前後からふわりと眠くなり転寝、休憩交代する3時にはしゃっきり目覚めて朝9時まで活動というリズムになっており、昼夜の逆転を気にしなければむしろ規則正しい。

日常での関心ごとは、最寄り駅の向こう側に夜遅くまで開けている大手スーパーができたこと、別の路線の最寄り駅の近くにあった小ぢんまりしているけれど品揃えの安い小規模スーパーが2月末に閉店するらしいこと、自宅そばのスーパーもどうやら危ないらしいことなどで、相変わらず五輪ピック的なものには一切の興味がなく、映画や演劇の類いもかろうじての義理を果たす程度で愉しみとは言えない。

4月のユニオン公演を控えてのWSが続いていて、今年に入ってキャスト変更とホンの改訂、WSの面々ではどうにも力足らずな部分を補強するためのキャストを招くことになりぼちぼち本腰の稽古といった感じ、これまでやってきたWSで判ったのは姿勢というかココロザシというかそういったものの類いで、技術や経験ではなく演劇人としてのそれが舞台に上がるときには何より大きな違いになるだろうと承知しての決断となった。

問題意識を感じるのはいつもそちら側の、今現在で言えばエンゲキにまつわるあれこれで、自分ではどうにもできないことに対して不満を溜め込み苛々が募る、バイト先ではエンゲキなど観た事もありませんという顔をしてそれを中和するという順応性のようなものが自分にあるとは知らず、よく今まで延々と不器用なやり方をしてきたものだと思ったりもし、アルバイトながら職場を持つということが経済的な支柱だけに限らないことを、やはり実感する。

エンゲキやったり小説書いたりすることが自分の生業で、食うために働くという感覚は既にない、無論食うためには働かなければならないのだが、エンゲキと小説が自分の中で同等な価値を持つように、働くこと=食うためのお金を稼ぐこともそれらと同等の何かに、やっとなった、生きることにもぼちぼちの本腰といったところか、いっそエンゲキなどから遠ざかっても案外へらへら生きていけるような気すらする。

但し、自分のことはともかく周囲の環境というか、接する人々の違いには痛感があって、エンゲキやってる連中なんざ糞みたいなのもいれば神のようなのもいて、そういう極端なところがバイト先で出会う人々にはない、ダメな人というのはどこにでもいくらでもいるが心底軽蔑できる糞みたいな奴なんてのは滅多に出会さないしそういう奴が存在し得る場所としてのエンゲキはだから面白いんだとも判っているから、どれほど不愉快な思いをしてもどうせ同じ糞と思ってそこにいる。

演劇は手段なのか目的なのかと論じることには大きな欠落があって、どちらも自分自身の価値として計っているだけの話、必要とされるときがあれば必要とされる場所に行く、需要と供給の原則でやっていくことができるから糞にも居場所がある、需要がなければ辞めればいいのにどんな未練か居座ろうとするから糞にもなるのだが、原則に従えばどこで何をしても淘汰に結びつき、客がこなくなるか本が出せなくなるかバイトをクビになるか、それだけが自分の価値の計り方だと思う。

他人に価値を評してもらわなければ自分自身が存在している実感を持てないなんてのは身軽さ故の泣き言なんじゃないか、本来は自分自身の存在と価値の大きさを感じていて自分1人がそれを抱えるのは大き過ぎてシンドイから誰かに背負わせたいってことなんじゃないか、つまり自分の価値を持て余しているってことなんじゃないか、もっと言えば何か表現したいだの人の前に出たいだの他人に評価されたいだのという傲慢さで苦しんでるだけなんじゃないか。

努力したから認められたい、努力を評価されたいという欲求ほど浅ましいものはない。

エンゲキや小説で食えないことが私の努力の結果としての正当な評価だと思う、食えないことをボヤキはするがこんだけやってきてなぜ食えないとは思わない、食えないがエンゲキをやれば客席に足を運んでくれる人がいて小説を書けば読んでくれる人がいる、出勤すれば時給がもらえる、そこが他の誰とも違わない当たり前の存在価値だろうし、その「生きていてもいい」程度の認められ方を自覚すれば何の不満も生まれない。

食うことは目的ではなく生きるための手段で、手段を持つことで生きることを承認されるという仕組みになっているとわかったから、バイトにありついただけでこれほどの充足感があるのだろう、エンゲキをやろうが小説を書こうが得られなかった充足だから私には何より貴重なのだが、その逆を感じる人も勿論存在していると思う、それまでの生活で得られなかった充足がエンゲキにあったりもするんだろうから、そのものの価値は問えない。

演劇だって小説だって面白けりゃいいんだから、承認欲求を満たす手段のそれだからって、本質は何も変わらない。
だからこそ思う、本質が何も変わらないのにそこで満たされるものがあるってどういうことだ?
つまりは、そこには何もないが正解なんじゃないか、満たされないものは何を手段にしても決して満たされない、それはきっとそうしたものを手段にしようとして目的が自分の価値の承認にしかないから満たされないのだし、自分自身があれこれに価値判断をしているからそうなのだろう、つまらぬもので認められても価値を感じられないというそれ。

生きることを目的としてすべてがそのための手段と思えば価値は同等で不満はない。
そのことを、信仰がある人はすべてに等しく感謝するといい、へそ曲がりはすべてに等しく大したもんじゃねえと言う。


  1. 2014/02/22(土) 23:15:11|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:2
<<本名修行。

comment

前川先生、こんばんは。先程メールのほうにコメント送信しちゃって、重複してるんですけどこちらにも(笑)なんというか、身につまされる思いでブログ拝見しています、というと大げさですが、先生のブログいつも楽しみにしています。自己の承認欲求が強いことと浅ましさってイコールでもあるんだなと思うと、耳が痛いです。多々そういう傲慢さで自分で自分の首を絞めている、とわかります。
演劇やってる友人がいるんですけど、神みたいに見えて、実は糞なんじゃないかと思ったりします。あんた、ダメ人間じゃん、って言いたくなること、ままあります。実生活でそういう人に出会うことって本当にないものですね。
  1. 2014/02/23(日) 21:33:50 |
  2. URL |
  3. hana #CglOiPn.
  4. [ edit]

honaさん、こんにちは。メール&コメントありがとうございます。
「演劇やってる友人がいるんですけど、神みたいに見えて、実は糞なんじゃないかと思ったりします。」に大笑いしました。
ダメ人間だからこそ必死になってそこに立つことで観る人に何かを感じさせることができるのでしょうけれど、ダメだっていう自覚がなく傲慢さだけが先に立つとそれすらできないのが事実なので、やってく以上はダメであり続けなければならなかったりするあたりがシンドイところです 笑
  1. 2014/02/25(火) 13:26:41 |
  2. URL |
  3. まえかわ #-
  4. [ edit]

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