仕事部屋

嫌ワレ者ノススメ。

繁華街で深夜に働いているので街のざわめきが近い。卒業、花見、入学、入社、浮かれた人々の喧噪を聞きながら仮眠する。
彼らは皆自分が属する小さな社会での役割を背負いそれぞれが必死であったりもするのだろう、もう一つ外枠の社会にはおしなべて無関心だ。自分がどう見られるかには神経を尖らせるのに、自分「たち」がどう見られるかに自分の責任があるとは気づかない。

幼稚園にも小学校にも制服があった。制服はどこかに属することを世の中に知らしめる。
てんで不良だったくせにおかしなもので、制服を着ているときには悪さをしないよう心がけていた。
自分が不良に思われることには無頓着でありながら学校の看板に傷がつくことはどうしてか恐れた。
子どもの頃から目立つたちだったせいもある。個人の名が知られることのない場では良くも悪くもひとまず制服が素性の代わりだから、制服と素行の印象が結びついて誰がどこで何をしても同じように一括りでレッテルがつく。
誰に教えられたわけでもなくそう判っていたから、制服は隠れ蓑にはならなかった。
私の場合はただ属するものに縛られるのが嫌だったんだろう。

歳下の女の子が、私は日々色んなことを我慢していると話す。
会社では自分の個性を押し殺し、家族の前では良い娘であるように努め、恋人に対しても我が侭を言わないよう心がけ、友人には嫌われないように細心の気配りをするし、コンビニでは小銭を募金箱に入れる。
芝居仲間の男の子は、世代の違う連中とやっていると色々溜め込むことが多いと言う。
それは違うだろうと思っても、彼らには彼らのやり方があるんだろうと思えば、違っている自分を押し殺すことになる。

我慢は癖になる。忍耐力とは違う、悪癖だ。
忍耐力というのは、受け入れる範疇の広さのことで、それがあれば「我慢している」とは感じない。
抑制する力とも違う。抑制する力があれば対応できる。対応できるそれは我慢とは違う。
我慢は我慢でしかない。もちろんそこには美学もある。

我を通すか我を殺して我慢をするかの二択しかないわけじゃなかろうに、場の空気だの他人の視線だの自分の責任だのを考えるとそうなってしまうのか、面倒臭さが先立って自分を犠牲にすることを択ぶのか、何にしろ安直な我慢は忍耐力や抑制力を削ぎ、そうすべきときときにそうできないアンバランスを生む。
「キレる」ってやつ。

我慢し続けてキレる。幼児にはそれしかできない。対応できる能力に限りがあり、言語での意思表示のバリエーションが少なく、自分が属する社会が小さ過ぎる。

海外ドラマに「Community」というのがあって、タイトルの通りコミュニティにおける様々なルールをネタにしたコメディドラマなのだが、それを観ているとコミュニティとは個性あってこその定義なのだと感じさせる。
アメリカのドラマだから、宗教も人種も違う人々が当たり前にいる、そうした本来の意味での「個性」を考えさせられる。
あの人は何が好きで何が嫌いとか、どんな性格でどんな趣味だとか、そういう表面的な個性ではなく、それらを生み出す背景を含んだ、自分ではどうにもできないものとしての個性、個人の属性。

個人の属性に大差のない人達の集まりはコミュニティとして成立するのだろうか。自分と同調する人たちが何人集まっても自分に見えないものはその人たちにも見えない、だからこその同調だし、それが極端になれば巨大に増幅した自我になるのではないか。
自分自身ですら自分を持て余すことがしばしばあるのに、自我が巨大化したらまったく手に負えない。

つまらないことをいちいち我慢してると、自分が本当は何をしたいのか、何が欲しいのかが段々わからなくなったりする。
自分のことは自分にしかわからない、というのが原則だとして、自分にもそれが判らなくなったらもはや誰もそれを汲んでくれる人は存在しない。
わからない心もとなさでほんのわずかな同調にすら流されて、そうだそうだと頷くだけになったりもする。
同調して寄り添う相手が団体であろうが個人であろうが同じことが起きる。被虐の心理の原点に重なる。

ただ寄り集まる人々だった団体は、無個性と無思考と無責任の同調によっていつの間にか個人を支配する役割のものになり、彼らに新たな我慢の言い訳を与える。
それが個人であれば、支配と服従の関係に丸く収まって他のものを割り入らせない閉鎖的な最小の社会となる。
支配されて服従するばかりではない。
我慢が同調を生み同調が追従になり追従はいずれ服従になる。
力でねじ伏せられてそうなるのではなく、抗う労力を怠けた挙句に行き着くそれがある。

社会であれ会社であれ個人の関係であれ、思考や主張を止めた人を必要とする場はない。個人としての役割を捨てるから強い個がたった一つで成り立つような歪さになる。
仲良く同調することがコミュニケーションではない。ましてリスペクトであろうはずがない。

それぞれの個を尊重するにはそれぞれが主張して違いを認識するのが最初であって、主調なき同調から尊重は生まれない。
しかし、主張を曲げずに我を通すことが尊重につながるかといえばそうとは限らない。
選択は難しい。
その時に必要になるのが、外枠から見たその場、関わるものの中での役割と責任になる。
内側の自分の立場から見るそれではなく、もう一つ外枠からの視点で自分が属する場を眺めれば、折り合うべきところが見える。

山本夏彦風を気取ってるつもりなのだけど、なかなかしっくりこないな。


モグラ町新作となったユニオン旗揚げ公演、間もなく。
2度と一緒にやりたくない奴も、その場で絞め殺したい奴もいる。
好きな人たちばっかりでやるんじゃないことが、面白い。

アンファンテリブル・ユニオン旗揚げ公演
「かと万 〜モグラ町3-5〜」@中野あくとれ
2014年4月19日19:30開演
4月20日15:00開演
4月20日19:30開演


どうかお足運びください。詳細・ご予約はコチラ



  1. 2014/04/06(日) 05:30:18|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:3
<<何が起きたのかというと。

comment

身につまされます。

前川先生のブログ大好きでいつも拝見しています。お芝居なんとか観にいきたいなぁ。

>内側の自分の立場から見るそれではなく、もう一つ外枠からの視点で自分が属する場を眺めれば、折り合うべきところが見える。

コレです。コレです。コレができないからいつも堂々めぐりをしているんだな、と思いました。いつだって優しくて親切でいい人気取りな生ぬるい己。嫌われることをいつもビクビク気にしているから、何者にもなれない己。猛省だの自省だのと言ってる時間を別のことに使ってみようと身につまされた次第です。
  1. 2014/04/07(月) 20:57:35 |
  2. URL |
  3. hana #tE21prRc
  4. [ edit]

>hanaさん

何者にもなれないのであれば嫌われ者になってやれ、ってのは極端にへそ曲がりかもしれませんけれど 笑

案外ね、ヒトはヒトのことを嫌いにはなりませんよ。付き合いづらい、扱いづらいはあってもね。
みんな同じように善い人ぶってる自分にうんざりしてるから、善い人ぶらないヒトに戸惑ったり恐れたりするんだけど、それくらいのことでヒトはヒトを嫌ったりしないもんなんじゃないかな。
  1. 2014/04/08(火) 18:50:19 |
  2. URL |
  3. まえかわ #-
  4. [ edit]

>何者にもなれないのであれば嫌われ者になってやれ

あはは(笑)
父親がまさにそういうタイプかもしれません。扱いづらくて、付き合いづらくて。かなりのヘソ曲がりで。周囲からは辟易されてますけど、不思議と悪評ばかりでもないんですよね。

>思考や主張を止めた人を必要とする場はない。

このお言葉にも、グサりときました。
  1. 2014/04/08(火) 20:05:12 |
  2. URL |
  3. hana #tE21prRc
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