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仕事部屋

もっと暗くなれ。

稽古が早く終っても皆飲みに行かなくなった、そういう人たちが新鮮でもある、演出家との話は稽古場ですればいいんであって飲み屋で芝居の話なんて野暮じゃないかという人もいるわけで、それはそれで正しいと思うのだが、芝居の話をするんでなければ特に今この人たちと飲む必要もないしなあと思ってしまうのも事実で、だったらさっさと引き上げて家でのんびりすればいいのだが今は家に帰ると放ったらかしの日常と山積みの雑務があるので自然ずるずるだらだら飲んでしまうことが多い、皆がスポーツの話なんかをしているのを眺めながら芝居のことを考えている、それはきっと皆同じだろうに胸先三寸に留め置いている時間がむずむず面白く見えることもある。

昨夜も小道具作りで徹夜してしまい2時間ほど横になりはしたものの眠った気はせず目覚ましが鳴る前に起きていた、台本を開いて昨日の段取りを思い返したりしてるとすぐに昼になる、昼過ぎに出て稽古場に向かう、今日は途中で定期券を落とし幸い乗換駅に届いていたので引き返して無事に取り戻したのだが、突発的に混乱し自分がどこにいるのかわからなくなってホームに15分くらい蹲っていて3人くらいの心優しい人に心配されたりしていた、12:45前後の電車に乗り換えて13:00には稽古場に着くはずだったのに、気がついたら13:10とかで水天宮前にいて、改札を出ようとしたら定期がなくて、そこでようやく「あ、そうか。さっきここで定期がないことに気がついて、定期券を落とした乗換駅まで取りに戻るところじゃないか」と気がついたのだが、こういう混乱は昔からあって、それは今回のような芝居をやるときにずいぶんと役立つ。

この芝居には「その場その場で名前を変えて生きてきたからね」という素敵なセリフがあって、最初の本読みでそれを口にした時にはいきなり涙が出そうになった、劇作家が意識してそのセリフを書いたのかわからないけれど、わたしが阿部定をやりたいと思う心根はその一点だけで、むしろ阿部定という人の他のことは一切わからない、嫉妬心や独占欲や一人の男への執着心といった犯行の動機のように伝えられる心情に重なるものが欠片もない、けれども、「阿部定」と気安く呼ばれるようになるまでに彼女が連ねていかざるを得なかった嘘の名前で過ごす時間にだけは心底同情できるし、やはりそれだけが、幼少期に書物で阿部定を知ったときから今の今まで、ずっと阿部定を演じることに惹かれる理由だと思う。

だから、この戯曲を受け取って「すごいホンもらっちゃったな、わたしが拘る阿部定もとうとうこれで成仏かな」と思ったし、そうなる可能性は勿論今もあるのだけど、現状そこには辿り着けておらず、そこに拘る余りにできなくなることばかりが増えるような感覚もあって、それが苦悩の種かというとそれほどの深みはない、まっしぐらにそちらに向かってしまう心情が、線路をあみだくじにするみたいにあちらこちらと振れていく戯曲だから、「その場その場で名前を変えて生きてきた」その「場」その「場」を創り上げなければどこにも届かない、その道すがらで、くらくらと目眩のように時間を見失う、その実感まで持っているのに。

稽古場はわたしが「すべきこと」を「する」ために延々と滞っているが、OKを出すのもダメを出すのも演出家だから申し訳ないなんて殊勝な心持ちはなく、言われたことだけをするためにココロを頑なに閉ざしてあれこれを感じ取らないようにしてみたり、言われたことに拘らず感じ取るままやってやれと開き直ってみたり、あれこれの手段を探る、その時間がそのまま無駄足になるとわかっていても、腑に落ちないものを投げたってどうせ稽古は滞る、しかも演出家は懇切丁寧にわたしの無駄足に付き合っていちいち「今のはどう思ってた?」「それはどう思ってそうした?」と問いかけてくれるので、国語の授業を思い出しながら言葉を探す時間がまた無駄足で、思っていることを訊かれて答える役者なんているのかと自分が置かれている状況をまた探り、見ろ見ろと言うから見ているが見えなくていいものも見えてしまう、それは見えていないのかと、見えるものがすべての稽古場を呪うばかりでずぶずぶと無駄足の足元に水たまり、やがては泥沼という状況を繰り返して、てんで芝居のことには気がいかず、その自覚はあってもすでに抜け出せない。

見かねた相手役があれこれと仕掛けてくれたりすると、今度はその様が面白くついつい見入って、途端「今、何を思って見てる?」と指摘され、ココロはてへぺろだがそうは言えない、役の上ですべきことの段取りはひとつもできていないのに同じことをその一つ外枠でやってしまったことが自分では今日一番の収穫だが、それが少しも芝居の役に立たない。

あんまりのできなさ加減に皆が呆れ果てているので「生理がつながらないんです」と状況を説明したが「わたし」はどう思うという意味での生理と捉えられていたのか、「生理はいらない」と言われて「そんな芝居の作り方があるのか!」と目からウロコが落ちそうになったがつまりはわたしが伝え方を間違えていただけである、見えなくていいものが見えても「見えないこと」にするのがお芝居の決まりだとは知っていたが、それがこれほど難しい、見えなくていいものが見えた瞬間にそれがお芝居で作ろうとしている「場」にあっていいものなのか、見えないことにしなきゃいけないものなのか、といちいち考えてしまうのは、自分の生理が働かないようにスイッチを切るからで、言葉の使い方の違いだけのことなのだがやはり生理がなければセリフすら覚束ないのだから。

演出家が懸命に伝えてくれる「場にあるべきもの」と「場でみせたいもの」は馬鹿じゃないから認識できる、言われた通りのことだけをやっているつもりもある、だが稽古場では「そう見えない」ことだけが事実である以上、つもりなんてものは自分にだって必要がない、だからそれを訊かれるとぎょっとする、鼻をかんだちり紙を拾われるようなそれだから、そういうのは飲み屋で訊いてよと思うのだが、言わばおしめを取り替えてもらっているような優しく丁寧な演出を受けているからそれには段々と慣れてきた、対応できる技術や受け皿の幅を引き出しが多いと言うけれど、それはその引き出しには入っていない、昔も今も空っぽですとお手上げしても通じない、手品師が隠れる箱のように底を抜くしかないのだ。

くどくど書き連ねてみたってやっぱりわたしは芝居のことなど考えていない、芝居のことを考えてるふりをして自分の事ばかり考えている、しまいには芝居のことを考えてるふりすらしなくなる。
それが、わたしの役のまんまだから泥沼に足を取られる、久々に、本当に久々に嵌り込んだクラインのドツボは、胎内のようでもあってわたしだけが心地いい。

殺すか殺されるかしなきゃ終わらない、と、誰かさんは思っている。
わたしも思っている。
それはそれできっと良くて、そこで重っていない部分を作っていく作業をやっているのだけど、それは本当は作るものじゃなくて見つけるもので、作ったものが増えるほど見つけづらくなるから、ぼんやりしてられない。
こうした御託をまったく並べず「すべきこと」を「する」ために御託を書き捨て、目を閉じる。

駄目だしされながらニヤついていて演出家に怒鳴られたことがあったなあ、そういやあれも阿部定だった、今日もついつい頬が緩んでいたのを見つかってきりりと睨まれた、オツムがお留守だと思われたに違いない。

稽古でうっかりの隙に足を痛めたが、いつもならそのままに「足を痛めた人」を演るはずなのに、そういや今日は誤魔化してたなあと帰ってきてから気がついた、つまりこれほど明白に今までの自分のやり方を投げ打ってるんだから、やっぱり見え方ってことなわけで、見え方は見せ方でもあるけれど見方でもある、てことは見たくないものは見なきゃいいんだ、と結論するまでの無駄足が必要なのだ、そこにあるもの全部が全部「お芝居」だなんて、誰も思ってないくせに、みんな見ないふりをするのが巧い、自慢じゃないが稽古で大汗かいてるのにもう3日ばかり風呂に入っていない、台所の鍋ではカレーに黴が生え炊飯器の中の白飯も腐っている、稽古の日はプロテインと飲むときの肴だけしか口に入れていないから頭の回転もかなり鈍ってきてるんだけど、それでも全然足りゃしない、普段と違うことをする道筋の先にあるのは破滅じゃなくて希望だから、絶望の道程は普段当たり前にすることをしなくなることから始まっていく、そこがぱたんと反転する瞬間をまずは自分の中で見つけなきゃ嘘つきばかりの稽古場でそれとわかるはずがない、だって敢えて見えるように置かれるそれは紛い物じゃないか。

誰も彼もに見なくていいものが見えてしまうから、蛍光灯の下で芝居の稽古をするのは嫌いだ。
たとえば鏡合わせみたいな泥沼まで白白と見える。


「(仮)の事情」9/17〜24@中野あくとれ、ご予約はこちらから。




  1. 2015/09/08(火) 01:26:31|
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