ヤバい気がしていたのだけど疲労が溜まっていたのもあってとうとう喘息発作、1日辛抱したけどどうにもならないので初通しの前に近所の医者で処方してもらい、なんとかやり過ごせた感じ、さてその通しでは覚束ないままなれど流れの中で拾えるものも多々あった、しかし90分のつもりだった芝居が120分と長大、劇作家+演出家からの改訂宣言で稽古終了。
飲みに行けば自分一人でやってるつもりの小僧に絡まれ、始発に乗れば寝過ごして目的地の前後を行ったり来たりで疲労困憊、帰ってきたら家の中には日常の気配がない、せっかく晴れたのに洗濯する気力がなく午後になってようやく制作雑務の合間で間に合わせの家事、記録用の通し動画と台本をチェックして一人反省会するも反省なんぞ何の役にも立たない、結局引き出しは空っぽのまま。
たとえば、誰よりもいい男に見えた方が面白い役だけど演じる本人がどうしてもそうなれないとか、理屈も解るしイメージも分かる、言われた通りにやってみせてもそうならないそう見えないという打つ手のなさには根深い問題があるわけだが、そんなことを突いてる場合じゃないのでそこは無視するしかないんであって、相変わらず国語の読解問題の解答を訊かれるような状態になるたびに状況は悪化する、どう答えようが解決にはつながらないと承知の上での現状、どうっているかが問題なのだとしたら尚更に解決のしようがない。
「リアルな生理はいらない」と言われて初めて見えた道筋も「どう思う?」と再び生理を要求されて踏み外したまま、どう思っているかが問題なのだとしたらどうも思わんとは口が裂けても言えないわけで、尚更に解決のしようがないとも思う、自分の生理を切ってさえそう思えないそう見えないから抜け出すには皆それぞれが一人勝手に「思ってるつもり」と「見えてるつもり」で筋道を運ぶことになる、そんなことはしないさせないと寄って集ってのああだこうだが続く。
「うそつくんじゃないよ」という台詞が何度も出てくる戯曲で、それは実際に劇作家の口癖なのだけど、嘘をつかれた経験や嘘をつく感覚がある人にしか「嘘なんじゃないか?」と疑う心根はないわけだが、戯曲に書かれている通りにその台詞を繰り返すことで嘘をつかれた経験がある人に見えたり嘘をつく人に見えてくるのがお芝居ってもんだろう、確かにそこに疑う生理などいらない、ただ台詞を言えばいいのだが、ただ台詞を言うだけじゃ結局のところ「ただ台詞を言ってる人」にしか見えないってのもお芝居ってもんだろう。
その先は「ただ台詞を言ってる人」以上の何者かに見せるための技術、演出なり演技なりなんらかの技術が必要で、あるものがないように見えたりないものがあるように見えたり猿が人に見えたり人が猿に見えたりして初めて演劇になるのかもしれない、技術というのは無論勉強や努力や経験を重ねた先に得られるもので、一朝一夕で道具にできるようなものでもないし他人から教わってすぐさま使えるものでもない、そもそも自分自身が持っている感覚や生理しか役者が使いこなせる道具はない、鍋一つが道具ならお茶が沸かせて米も炊ける、しかし靴紐一本じゃどうしたって真似できない、そういう類の諦観。
要求されていることはそんなに難しいことじゃない、自分でできないとも思ってない、WindowsのマニュアルでMacintoshを使おうとするようなもんで、手順がまったく違うから郷に従うを試みてはみたがもはや手慣れた手順に戻すより手段はない、通し稽古がやれたからあそこでコレを拾ってそこでコレを拾ってと必要な材料の在処も確認できた、毎回零さずにそれを拾い集めれば必ず辿り着く状態がある、しくじったって何もできずにいる今よりはマシ。
何をどう見て何をどう捉えていつどこで何を思い考え感じるか、他人に従うことを試みた価値はある、空っぽにしか見えない、何かあるように見せる技術がないからほんとに何かあるときにしか見せられるものがない、「自分の中の生理は不確定要素だから身体の状態で作ったほうが確実だ」と演出家が言ったそのまんまのことを普段はやってるわけで、ただ、自分の中の生理が自分自身の生理じゃないってことや、身体の状態を作るための材料をどこから拾ってくるかっていうことの違いなんだと思うけど。
どんなときでも絶対に消えてなくならない、いちばん確かなものが目の前にあるんだから。
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- 2015/09/11(金) 22:03:03|
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