仕事部屋

水に流す。

月初めより職場に復帰、安定の無変化と予想通りにアトラクション環境の悪化にも瞬時に順応して、帰れる場所の1つになったんだと実感、この年令でのバイト生活は想像以上にしんどくて先々の不安も増すばかりだが、ひとまず出勤すれば目前の雑務があり、それらがある限りは誰かが必要で、その誰かは誰でも良いのだが、わたしでなければできないことをしたいなどと思うほど自分に拘らずにいられることが、働くことの利点でもある。

人との関わり合いにも同じ感覚があって、何かが決定的に変わってしまってもおかしくないくらいの時間を挟んで尚且つ変わらずにある本質的なことに触れて初めて、この人とはこういうことだったんだと実感したりする、これまで幼馴染や同級生にはそう思えても、共有する時間の少なさ故に確信のなかったそこにも今や思い至るのはまさしく年月なのだろう、この頃話してないなあ、次に会っても話せないかもしれないなあという漠然とした不安から解放され、会わずにいる時間を恐れずにいられる、年月の上に立って見渡すと今更にそういうことなのかと飲み込めることが増える、間にあるものは同じでも確信のないままぼんやり予測してあることにしながら関わってきたけれど、あると知れば互いに見据えることができて面白い、自分自身のそれも同じで、ぼんやりあることにしていたものがくっきりと模られれば自分にも触れられる、喩えるとはっきりしない体調の悪さに病名を付けられた時のような安心感と、今度はそのものに対しての明確な恐怖という感じではあるが、何を恐れているのか判然としない恐怖よりずっとマシに思える、ましてそのものが奥深く見つめて見飽きることもない、数カ月前に生活改善計画が頓挫したとき「もうわたしはこのまんまだと思う」とボヤいて「マエカワさんのことだからわかりませんよ」と言われたその通り、今更人生の軌道が動くようなことはなかろうと思っていたのに未だその機会だけは予見する、どうしようと択ぶことや決めることはできなくとも恐らくは何かによって動いていくのだろう、その1つ手前のタイミングで「そこにあるもの」を見据えて触れて確かめられれば動くことは怖くない。

年月は水の流れに似ていてゴツゴツした石も滑らかにしてくれる、砂利に隠れたところまで透けてみえるくらいには日々何かが少しずつ動かされていて、石の角が削られるその瞬間は捉えられなくても触れればちゃんと年月が見える、流れこむ先の海までは見えずどこに向かっているのかすら読めずとも、年月は確かにそこに流れていると知れれば委ねてもいいのだと分かる、なかったことにすることを水に流すと言うけれど、水に流して初めて確かにあるものが見えもする、晩年の美空ひばりに川の流れのようにと歌わせたのは秋元康で、なかったことにしたくて水に流すのではなく川底にあるものを今一度確かめたくて水を流すと知っている歌声だった、逆らわず堰き止めず汲み取らず、ありのままにしかあり得ないからこそ信じられるのが年月の価値だ、四万十のどうどうと力強い濁流も、少し登った源流の囁くようなせせらぎも同じ流れであることがまた年月に似ている。




  1. 2015/10/03(土) 13:54:25|
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