仕事部屋

ネタの種。

小説を書くときには、自分の日常にあった出来事や人との会話、自分が感じたことや考えたことのすべてがネタになる。
といってそのまま書くのでは小説にならないから、あくまでも小説の中にディティールやエピソードとして埋め込んでいくわけだが、小説を書くことの概ねは、ネタをどこでどうやって使うかの知恵なんじゃないだろうか。

大昔、深夜に入った歌舞伎町の中華屋で、疲れた顔のサラリーマンが一人ビール瓶を前に餃子をつついていた。
そのときには、多分何も感じていなかったのだろうが、小説の中で、疲れたサラリーマンが一人で過ごす夜と考えたときには自然とその中華屋が浮かんできて、店員の女の子の片言の対応まで鮮明に思い出した。

どうせそのまんまに使うわけではないから、それについて自分がどう思うかは二の次三の次で、まずは自分が見た通りの記憶、それから自分がどう感じたかを思い出し、なぜそう感じたかを分析して、留め置く。

そのサラリーマンを疲れた顔と思ったのはなぜか、目の下のクマなのかワイシャツの汚れなのか顔の色艶なのか、分析したそれが描写に役立つ。
ここの部分のデータが少ないと、書くものが類型的と言われたりするんだろう。

それは、演技をすることとも似てると思う。

恋愛小説が苦手といつもこぼしているけれど、それはきっと、恋愛の最中には日頃のそういう感覚がまったく働いてないからだろうと思う。
相手だけを注視して周囲が見えていないのか、ふわふわした心地で相手すらまともに見えていないのか、データの保存がないから、恋をするという感覚をどう書けばいいのか、何度挑戦してもさっぱり思い浮かばない。

ところが、性描写はすらすら書ける。

初めてエロを書いたときにはグラビア雑誌を買い込んで見たままを描写するという乱暴な方法でエロ熱を出したりもしたが、以降は過去の経験や想像の中で自在に感触を辿れるようになった。
つまり、無意識下に留め置いたネタがあったということで、それは行為の最中に案外と醒めてるってことなのか、忘れ難い鮮烈な行為ばかり経験してきたのか、ともかくエロ描写にだけは悩むことがない。

やはり演技にもそういう得手不得手があって、これも何度か書いている話だが、2時間ドラマなどに普通の人物として出ると「犯人に見える」んだそうで、「犯人か、もしくは何か重大な秘密を知っている顔」と言われるから始末が悪い。
実際に犯人の役をやったらやったで「自白が嘘に見える」という言われようだから難しい。

得手はそういうことの裏返しだから「何をやっても(あなたが)そういう人に見える」ことなのだろうが、これはアラーキーに「会うたびに顔が違う」と言われることともつながっている気がする。
大概のことは自分の経験のように思い込んでいるから、ありもしない記憶を持ったりあり得ない未来を夢見たりが「生っぽさ」と言われる所以らしい。

小説を読んだ人に「どこまでが本当なのか」と訊かれることがあるけれど、小説に本当のことなど一つもない。
本当のことはディティールやエピソードになってはいるが、本当のことを書くなら小説なんて七面倒くさい形は択ばず、もっと生々しい自分の言葉を使う。

同じく演技を視る人に「あれは本気なのか」とか「自分そのまんまじゃないのか」と言われたりする。
演技の嘘と本当については簡単に言葉にできることではなくて、ただ、自分そのまんまで芝居なんてやれるはずがないじゃないかとしか言えないのだけれど、これも大昔に白石加代子さんから「絶対に素を見せない女優」と評されたから見抜く人はいるわけで。

ただそうと「見える」ってだけで「そういうもの」にされる暴力的な了見に苦しんだ時期が確かにあったから書く方がましだ。
演じる側の「つもり」など無意味で「見える」ことがすべてだと知っていなければ、「書ける」ことがすべてだと割り切れずにもっと悶絶して苦しんでいただろうな、と今は思う。

「見える」ものや「書ける」ことを鵜呑みにされて、そう思われてなんぼのことをやってるのだから、こうしたことを言うのは言い訳がましいのかもしれないけれど、ここに書くことだってつまるところネタだもの。

久々に恋愛小説を書いているのだけれど、しばしば手が止まるのはデータのストックがないからで、いちいち記憶を掘り返して分析することを書きながらやっているからだろうけど、その時に、当時はさっぱり思い至らなかったことがやっと見えたりもして、都度悔やんだり合点したりして、ついつい自分の記憶で遊んでしまう。

「描写」という視点から出来事を捉え直して初めて、どれほどその人が自分をしっかり見据えてくれていたのか、そこにあるものについて考えてくれていたのか、どんなふうに受け止めてくれていたのかに気付かされ、つくづく言葉ってのは頼りないツールだなあと実感する。

その瞬間にちゃんとそうと感じ取れていれば「ありがとう」と言えたのに。

そんな悔いを成仏させるため、小説の人物の「今その瞬間」に埋め込む。
「ありがとう」ばかりではなく恨みつらみの成仏だったりもする。
しかし概ね、恨むような気持ちは消化しているから、スイートな気持ち以上にデータのストックがない。

そもそも、他人の悪意に対して鈍い。
感情の処理能力が7歳児レベルと精神科医に診断されたが、「好き・嫌い」「わかる・わからない」「したい・したくない」程度のことが基本で、「好きだから〜したい」とか「嫌いだけど〜したい」とかの、組み合わせのルールがわからない。

「好きだから〜したい」には「好き」と「〜したい」という二つの要素があるのだけど、単純な組み合わせならなんとか理解に及ぶものの、何かしらのフィルターがかかった複雑なそれは、どちらか一つ、もしくは二つをそれぞれに受け取るだけで組み合わせる意図の理解ができない。

恋愛においては、「メールの返信がないから気がない」とか「気が付くと近くにいるから気がある」とかの、そもそものセオリー自体が理解できない。
「メールの返信がない」ことにはそれぞれ事情があるだろうと思い、「気がない」と結び付けられない。
そういう思考回路がないので、他人のそれもわからない。

たとえば、「はい」という返事と、「はいはい」という返事にはニュアンスの違いがあって、「はいはい」と二つ重なると「うるさいなあ、もう」的なニュアンスが含まれるからお返事は一つと躾けられるのだが、そういうニュアンスが感じ取れない。二つだろうが三つだろうが、私にとっては「はい」という肯定だから、嫌味や皮肉としての意味合いが含まれていてもさっぱり気づけない。

そういうことは小説を読んだり映画を観たりすることで学習はできるので、「そういう可能性もある」という程度の回路は持っているのだが、共感や確信がないから、オプションみたいなものだろうと思う。

つまるところ、日頃、他人の話を殆ど理解していない。
ただ、話の中身や言葉の択び方に影響されないお陰で、「なぜ、この人は今この話をしているのか」というようなことだったり、「この人はどんな状態なのか」ということが、より明確に見えることがある。

そして、日常の大概のことは、そこだけ見えていればなんとかなる。
「はいはい」という返事の仕方に嫌味が含まれていることは、言葉の理解ではなく、その人の状態として理解できるから余り不便は感じない。

恋愛モノの多くで「あのときこう言ったのに」とか「あんなことしておいて」とかの、重要なディティールとされている嘘や心変わりであっても、言葉の意味は重要じゃなくて、その時々の心の在処が重要だと思うから、嘘や心変わりを詰る根拠が見当たらず、恋愛のシチュエーションとしてうまく扱えないのだ。

恋愛よりエロの方が分かり易い。
好意より行為の方が誤解がない。

日常を大雑把に捉えてやり過ごしているもんだから、仔細なディティールはいちいち後から分析することになるのだが、そこで、自分が捉えていた大雑把な理解と、言葉や仕草を含むその瞬間を分析して得られるものを統合してやっと「!」に至る。

一度その過程をそのまま小説に書いたことがあったが、大層不評であった。
普通の人にすれば分析するまでもなく当たり前に感じ取ることを、「!」に辿り着くまで綿々分析するんだからさぞかしまどろっこしいに違いない。

だが意外と、そういうまどろっこしい辿り方が、誰かにとってはしくじった恋愛のおさらいになったり、進行中の恋愛を考察する解説になったりするらしく、また書く。


明日、リリース。

コミック・ノベル「カレジャナイ。〜キスから先に溢れる想い」 全6巻を予定しています。

コミックシーモア

1巻:10月9日(金)
2巻:10月23日(金)

eBookJapan

1巻・2巻ともに 10月15日(木)


…当然ながら、主人公も鈍いのです。






  1. 2015/10/07(水) 20:01:47|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:0
<<日常の潮時。

comment

contribute

display in just the manager

trackback

Trackback URL
http://workroom.jp/tb.php/1302-44415d07
trackback for FC2 user