ゲンキンなものでこの頃はやっぱりFacebookなどからも遠退いていて、生きてるのか?と直接確認してくれた人がちらほらいたくらいだが取りたてて知らせたい近況や心情がない。
いや、ここ最近でものすごくはっきりとしたことがあって、自分の中ではしっかり言語化できてもいるんだけど、それを誰かに伝えたいとは思わないので未だ誰にも話していなかったりもする。
思えばそもそもそういう資質なんだけど、そういう資質そのまんまでいられる時間が、これまであまりなかった。
芝居を作る作業には不適切な資質だったからだろう。
頭の中身をあれほど他人に伝達しなければ成立しない役割は、そうそうないと思う。
思考や心情は湧くそばから言語化して垂れ流してきていて、喋ってしまうと自分自身がそれに煽られたりもするし、喋り続けていると不意のだんまりに意味ができちゃったりもして、物事の奇跡的な解決もとんでもないしくじりも、すべては言葉が発端だった。
たいていの場合、感じ取ったり考えついたりしたことはもやもやと頭ん中に浮遊していて、言語化するにはスイッチひとつくらいの切り替えが必要で、起動が遅いこともしばしばあるのだが、いったん言語化するための回路に電流が流れればあとは垂れ流しだ。
つまり、考えて喋るってことがない、クーラーの自動運転みたいなものだった。
twitterをよく使っていた頃もそれに近かったんだろう、ただ文字数が限られている分、意識的に言葉を組み立てていただけ。
たまにFacebookを見ると、友人たちの個性や感性や人生に圧倒されてしまう。
情報のすべてにイイね!をつけてコメントしたいとも思うのだけど、なんだかうわあーと思うばかりで残す言葉が見つからない。
おめでとう!すごいね!よかった!がんばれ!
などなどの至極単純な反射としてのそこでしか機能しないので何も残さないんだけど、時々は皆さんの投稿を眺めて、へえーすごい!とか思ってる。
新型コロナウィルスは演劇や映画の成り立ちにあれこれの影響を及ぼしていて、皆がそれぞれ何をすべきか何ができるかと思い悩んでるというのに、
そうだよなあ大変だろうなあとか、どうなっちゃうんだろうなあとか、まるきり他人事になっていて、自分がもうそういうことを考えないところにいるんだなあとしみじみ思う。
そもそも自分がそういうところで何かしていたという実感すら残っていない。
がっつりやってる連中のことも勿論心配ではあるのだけど、それよりも、とうに芝居のことなんか忘れて暮らしているだろうかつてWSにきていた人たちのことを不意に思い出して案じることのほうがずっと多かったりする。
あの人たちはあの頃きちんと働いていて、仕事の合間や休みを潰してでも芝居に関わっていこうとしていたわけで、それがどれほどの気持ちだったか、今思えば働いてもおらず芝居にだけ時間を使える自分なんか到底太刀打ちできないものだったんじゃないか、それだけの気持ちに果たして応えられていたのか、何かひとつでも、その場だけでなく人生のかけらとして役立つ関わりができたのか、楽しませてあげられたのかと、悔いばかりが浮かぶ。
そして、そういう気持ちはうまく言語化できなくて、やっぱり黙り込む。
身を削るように自分の内側を曝す役割がなくなり、言葉にできない思いが増え、この歳でようやくいくらかは分別を知った。
働いていると、考えや感じたことを言葉にする必要がないので、楽ちんだなあ。
言葉は、ホルモンとかアドレナリンとかと同じく体内で自然に生じる何かの物質なんだろうと思っているのだけど、だとすればすっかり体質が変わったのかもしれない。
分別といえば成長だか進歩のように聞こえるが、ただ言葉をこねくり回す頭やココロの機能に更年期が訪れただけなのか。
気がつけば今年も誕生日シーズン、先月末には二代目犬息子が、今月は亭主に始まり来週には娘も、再来週には私がまた年を重ねる。
長年あちこち不調だった身体にも、とうとう確定診断で病名がついた。
命にかかわるような病気ではないが、放置すればいずれ動けなくなるとまで言われればやはり恐ろしい。
幸い診断されてすぐに始まった投薬が効いたようで、毎月の検査では数値がかなりよくなっていると医者は楽観的だった。
病院近くの薬局で、「この病院で診断されるまで、いくつの病院で検査を受けましたか」と聞かれたので答えたら、
「やっぱりねえ。この病気は3軒目4軒目でやっと確定という方ばかりなんですよ」と薬剤師が笑ったので、そんなものなんだろう。
今は勤務を時短にして、でき得る限りの楽ちんを追求している。
以前ならその日の仕事が終わるまで当たり前に残業したが、この頃は「これは今日終わらせられないので明日やります」とぬけぬけやり残す。
メインで担当する部署が変わって私の仕事を代われる人がおらず平日に休むとその日の業務が丸々デスクに積まれており、月末月初になると1日分の仕事が3日がかりになって無能を思い知り、また口数を減らす。
一年前にやめたつもりだった煙草をまた吸っている。
煙が言葉の代わりになっている。
私たちはみんな、ひとりぼっちの寂しい脳みそを生きています。骨の独房に閉じ込められ、絶え間ない思考労働という終身刑に服しているのです。(小島慶子さんの文章より)
- 2020/08/10(月) 23:44:21|
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