帆太郎命日のドッグランと近場の神社で七五三詣をした以外は配信の韓国ドラマばかり観ていた気がする、今日は早退して医者2軒をハシゴして明日の1軒で年内は診察納め、病状は緩やかに悪化しており薬が増えた、大人はヨレヨレでも犬と孫は極めて健康、通勤電車では小説を読んでいて作家の名前もタイトルも覚えられず読んだ傍から忘れて読み終えた物語の断片が次々混ざっていく感じ、職場ではこの半年でようやく新しい業務に慣れ効率が上がり始めたところ、席替えのおかげで環境も良い、少人数の同僚で飲みに行ったことが2〜3度あったけれどその他の宴席には参加せず今年は記憶をなくす機会もなかった、新型ウィルスの流行に関係なく家で過ごしている、孫や犬の成長と共に家の中は雑然としてきたがまだうんざりするほどではないし、常に自宅に人が出入りしていた頃とは生活様式も違うので雑然とした家こそが暮らしであるようにも思う、家の中に人がいるのと出勤すれば同僚がいるのとでわざわざ人に会いたいと思わないのかもしれない、ツールもあまり使わなくなって誰かと連絡を取るのも必要最低限になって、これくらいが普通なんじゃないかと思うようになった、もうしばらく会わずにいる人のことはよく思い出すけれども。
普通という感覚は多分、身近な範疇のそれと自分がさほど変わらないという実感に基づいているんだろう、違和感があれば自分が普通じゃないと感じるかこいつら普通じゃないと感じるかのどちらかで、それを特別と認識することになったりもする、自分のことで考えるとAという範疇で違和感を持ってもBという範疇では普通に感じられたから違和感が苦しくなればBに逃げ普通に退屈すればAに逃げと立ち位置を変えることで気楽さを保っていた、気楽さは余力だ、最近馴染んできたCという範疇は気楽そのもので追い込まれることもテンパることもなく今のところ退屈もしていない、それでも逃げ体質は変わらずにあるからまたいつかはここからも逃げ出して最後まで何事にも向き合わず逃げ果すのかもしれないけれど、立ち位置を変えるのにも体力がいる、自分の体からは逃げられないからなあ、居場所が変わると必要なことも変わって、Aでは役に立たなかった資質がBでは才能と呼ばれたりAで許されていたことがCではご法度だったりするその変質が面白い、年齢や経験を重ねてわかることが増える面白さが縦軸なら居場所を変えるたびに自分自身を組み替えさせられる面白さは横軸で、AもBもCも自分の座標点でしかないわけだから、つまりは何をしたって自分自身からははみ出せない、ならば精一杯でたらめに点を打ってやれと思う。

こどもの頃に繰り返し聴いていた朗読のLP盤5枚組をフリマサイトで発見し入手した、そうやって端っこを千切るみたいに大して考えず処分してしまったものがたくさんある、端っこじゃなくて真ん中かもしれないのに。
- 2020/12/16(水) 00:22:21|
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