うっかりしたことを言ってしまうのは、本当に矯正すべき悪癖だと思う。
これまで何度、悲鳴をあげさせただろう。
そのたびにうっかりした軽口を自覚し、反省し、申し訳なく思うのに、性懲りなく繰り返す。
目の前の悲鳴を聞くまでそうと気づかない無神経のせいだ。
耳に残った悲鳴を一日二日がかりで反芻し、ようやくそれと知って、がっくり落ち込む。
せっかく「今、なんて言った?」ってその場で聞き返してくれる素直さを前にしても、あたしはどうしようもなく鈍くて、反応の良さを感心してへらへらしてるばかり。
あんなこと言おうとしてその話をしたんじゃないし、そんなふうなつもりでああいう言い方したわけじゃないんだけど、それを補足したくともこうして気づいたときには時間が過ぎてしまっているので、わざわざ蒸し返すこともできず、結局は言いっ放しに終わる。
わかってくれてるよね?って甘え方、ほんとは一番嫌だし、したくないのに。
きっと、普段から自分が思う以上にそうやって甘えさせてもらってるんだ。
だって、悲鳴のような反応にも鈍いあたしが、何も言わない人のそれに気づくとは思えない。
自分の小説を読み返すと、いちいち主人公の鈍さに驚いたり呆れたりするけれど、あれはそのまんまあたしなんだろうか。だとしたら、ちょっと嫌だな。
そりゃ確かに、繊細ぶるよりいいんだけどさ。
どっしり構えるってことともまるで違うし、あーあ…って思うことは一生かけても一つずつ減らしたいじゃんか。
オートバイみたいに、いろんなメーターがついてたらいいのに。
思いやりの残量、愛情の排気量、知恵の回転数、人生の走行距離なんかがわかるように。
- 2007/05/13(日) 18:28:02|
- 雑感
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まえかわ先生の作品は、フレンズ所収の『恋する、ふたり』を最初に読ませてもらいました。
主人公の女の子に「自分の世界だけが、守られた特別なものであるべきだ」っていう狭さがなくて、ぼくはそのことに安心して、にこにこしながら話を読み進めました。
自分から視界を限定しない強さが、多くのものを主人公の心に通しているのが楽しかったな。そういうあり方の代償みたいに、お母さんと彼の関係に話の中で決着がつかない、というのも、恐ろしくて面白かったです。話の結末がはっきり示されないことで、人生のとりとめのなさ、けじめのなさが目の前に立ち現れて見えた気がしました。
個人的に、文体が肌の温もりに溶けたバターみたいになめらかであたたかい感じに思えました。
わかりやすい決着やけじめを求めがちなおおざっぱな人間として、ぼくは、まえかわ先生の言うことや作品によって自分を切り崩してゆく必要を、どうしても感じてしまいます。
- 2007/05/14(月) 07:12:37 |
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なるほど…、鈍さも広さに似たものと捉えればいいのか。
レフさんはいつも、ブログ記事や日記でも作品でも、本当に上手な読み方をして下さいますね。コメントで気づかされることが多くて、とても感謝しています。どうもありがとう。
なんて、せっかくの反省もこうして甘えて自分で緩めてしまう 笑
まったく、人生にはけじめがないもんですねえ。
多分、あたしはそういうものを抱えるのが好きなんです。
- 2007/05/14(月) 22:41:12 |
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