前夜はタケと差し飲み、お祝いに「マクダフ」という名のシングルモルトをプレゼント、タケは一日だけあたしより若いので、間一日挟んでおめでとうメッセージのやり取り。「共に白髪の生えるまで」とか「墓場までよろしく」とかって普通は夫婦の間で交わす言葉なのだろうけれど、あたしの人生においてこれほどの時間を共有している人はタケを置いて他になく、結局そんな台詞はタケにこそ相応しい。
誕生日だった日曜は一日のんびり。いつも片手間で済ませる掃除にも、ベッドタイムオンリーだった読書にも時間をとれたし、パスタ作ってDVDなど観て久々にゆったり過ごし、夜はちょっとだけデート。煩いごとのない誕生日って幸せ。もちろん、誕生日だからって〆切は動かないわけだが。
振り返れば芝居みたいなドタバタ人生をやってきているのに、四十の誕生日の穏やかさはまるで素舞台。
8/23 thu @shibuya WASTED TIME 18:30open 19:00start
チャージ前売り1000yen(当 1500yen) +500yen×2オーダー
出演
1,藤元りょうこ 19:00~19:30
2,薬指サム 19:35~20:05
3,micco 20:10~20:40
4,前川麻子 20:45~21:15
5,808 21:20~21:50
歌を届けたいとか、気持ちを伝えたいとか、そういうたいそうなことが何もないから、その日のあたしはただ人の前に立つ、ということだけをやるんだろう。
芝居では、一人きりの舞台の上で二十分ほどずっと黙っている場面をやったことがあるけれど、見せたいものがあるとすれば、本当はずっとそういうことなんだろうと思う。だけど、一時間とか二時間をただ黙ってそこにいる人を生真面目に見物する酔狂なお客さんもなかなかいないだろうから、サービスとして、台詞を喋ったり物語を組み立てたりしてきたように思うのだ。
もしかしたら、小説も、そんなふうに書いているんだろうし。
だから、人前で歌うことは、むしろそれに近い。
歌の技術があるわけではなく、いつも頼っている与えられた役や台詞や物語もなく、ただ立つ=そこにいるしかないんだから。
そこにいて、音楽があるから歌う、それだけのことがあたしの思う「歌い方」なのだけど、「そこにいる」はともかく、音楽があるから歌うという今までの自分にはかなり不自然な行為を自然な反応として出せるよう吸収するには、やっぱりそれなりの時間が必要なわけで。
芝居は見せる時間が長い分、構築する過程を見せるから、芝居の人たちは、稽古場で当たりを出して、また崩す。つまり、いかに手早く確実に構築していくかを探るため、稽古であらゆるものを拾ってあれこれの手順を確かめる作業が稽古になる。
比べて音楽の人たちは、練習では決してイカない寸止めの助平だから、練習時間は一週間分でも芝居の稽古の一日分にすらならないけど、今回はずいぶんきっちりやってきた気がする。あたしが、基本、寸止めの助平だからだろうけど。
無事に四十になったので歌います。
ま、せめてかっこ悪いことにならないようにしたいもんですな。わはは。
- 2007/08/20(月) 02:07:32|
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