地雷を踏み抜かれた。
瞬間、「あーあ、やっちゃったよ、このヒト」と。
まあ、あたしはヘタレなんで、踏み抜いた相手を木っ端微塵に吹き飛ばすなんて大技はできず、自分がぶっ飛ばされる程度なのだけど。
不快感の傷は癒える。一晩眠れば大概立ち直る。友達としての基本的な付き合いもそのまま続けられるだろう。だけど、しっくりこない。
そこは地雷原ですよってこと、どうして気づいていなかったんだ?
踏み抜いた瞬間に「やっちゃった」とは思わなかったのか?
何故謝らない?
もしや自分が傷ついたつもりになっているとか?
あたしがあれだけはっきりと怒ったのに?
つまり、地雷を踏んだ自覚がないってことなんだろうけど、そこんとこがしっくりこない理由で。面倒だから考えないけど、腹が立つより疑問が先に立つ感じのもやもやが残る。
あたしは、失望してしまったんだろう。失くした信頼は、なかなか埋められない。
正しいとか間違っているとかの問題じゃないし。仕方ないで済むことならこっちもその場で済ませてる。楽しいときだけの表面的なオトモダチなら、地雷原を通っても踏み抜くことなどなかっただろうし。親しいからこその、「ええーっ?あんたがそれ言う?」って地雷だもの。
ただ、それに気づかないってことにひどく失望した。浅い付き合いじゃないのに、わかってもらえてなかったんだなあという失望。気づいていて謝らないのなら、軽蔑もできるし、付き合いを止めることもできるのに。
言葉の意味に囚われて人の心にまで目が届かない人って単純な神経質なんだろうと思う。
逆に、心の動きばかりを追って言葉の意味を大切にできない人は、感受性が強いばかりの無神経。
あたしの場合はきっと後者ですな。映画を観ても本を読んでも、新聞記事や見知らぬ人のブログ記事や2ちゃんねるですら、その言葉を、どんな気持ちで口にしているのかと考えて泣けたりする。
そのくせ、近しい人には暴言をぶつけてしまうことばかり。
すでに相手の言動に傷つき怒っているからこその暴言なのだが、「暴言」と自認する分、先に謝ってしまう。神経質な人は、あたしの暴言に傷つき怒るけれど、それを口にする側にどんな気持ちがあるかが想像できないので、指摘されるまで自分の非に気づかない。自ずと気がついたら、暴言ならずとも「ひどいことを言った」とか「無神経な振る舞いをした」と恥じ入るのだろうけど。
コドモじゃあるまいし、「ああいった」「こういった」「そんなつもりじゃない」なんてやり取り、ばかばかしくてやってらんないよ。言葉の使い方であればまだ指摘のしようもあるけれど、それを口にするときの心まで解説するなんてできっこないし。そこが通じ合わないのは、致命的なズレ、俗にいう「ムリ」だと思う。言葉で解説しなきゃ想像のつけられないヒトは、言葉で解説したって言葉の意味以上の理解を得ることもなかろう。
絵を見て「キレイだな」と感じないヒトに「この絵はキレイなんだよ」と教えるような無粋。
ま、つまりどちらも繊細さにはほど遠い。
打たれ弱いのとナイーブであることはまったく違うからね。
普段からそれを繰り返していて、とうとう地雷を踏み当ててしまったんですな。
だからあれほど言ったのに。残念です。
どうしようもない違いに思えるから、どうしようという気力も湧かない。
ただ、関わりたくないと思う。
関われば関わるほど悲しさが積もるのに、どうせ向こうはそれにすら気づいていない。
積もる失望がまた地雷を覆い隠して、またいつか踏み抜かれるんだろう。
因みに『
地雷を踏んだらサヨウナラ』は一ノ瀬泰造の著作。
痛くて明るくて、いい題名だ。
- 2007/10/27(土) 16:34:22|
- 雑感
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ぼくは、テレビゲームのプレイヤーによる感想サイトをチェックするのが好きなんです。
分析や批評めいたことを書く人もいるけど、みんな基本的に、ほんとに素直に良い夢を見たいって願ってるんだな、って思います。
お祭りに連れってってもらう前の子供みたいに、おこづかいや保護者の了見の限界を想像しつつも、そこで起こるはずの楽しみを無邪気に期待してる。
そういう人達が、時間をかけて付き合った作品に心から感動したり、がっかりさせられたりしている
自分も、本を依存症に陥りながら使う薬のように濫用せずに、一冊一冊にちゃんと振り回されたいものだなと思えます。
作品も人も、誰かの目に触れるまでに、作者や親や周囲の誰かに、たくさんの愛情をもって守られ育まれてきたわけで。
その特別さを無視しないっていうのは、忘れないようにしていたいって、いつも思います。
- 2007/10/29(月) 22:05:58 |
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ああ、なんだかわかりました。ほんとにいつもありがとう。
あなたはいい物書きになれると思うなあ。
文章で誠意を伝えられるのはちょっとした才能だと思います。
- 2007/10/31(水) 22:12:50 |
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お返事で言ってもらえたこと、すごく嬉しかったです。
これでまた生きて行けそうです。
ほんとに、ありがとうございます。
伝わるっていうのは、不思議で頼りになることですよね。
ぼくは、言葉なしで母親に甘えたり子供を慈しんだりできる動物という存在が、いつもうらやましいんです。
保育園に通っていた頃、夜中に自分を迎えに来たお母さんに走って行って抱きつく友達を見て、自分にはどうしたらああいうふうにできるのかが、いつもわからなかった。
母親に抱きつく方法がわからなかった。
子供ができる当たり前のことができないぼくを見かねて、保母の先生が苦笑しながら頭を抱いたりしてくれていました。
そうやって不器用者で、人に生かされてるのは、もしかしたら今も相変わらずかも、なんて思ってしまいました。
こちらこそ、いつも本当にありがとう、です。
- 2007/11/01(木) 21:27:41 |
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大丈夫だよ。あなただって、その自意識の芽生え以前、生誕直後には動物と同じように母親にしっかりしがみついていたに違いないのだから。必要なことはちゃんとそこでやってきているだろうし、得ているだろうと思う。だから、これから先にあるだろう必要なときにも、しっかり腕を広げられるはず。大丈夫。
- 2007/11/02(金) 00:57:19 |
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