非日常な物語ではなかったのに、やはり劇空間というのは非日常なのか、ぼんやりだらだらと脱力した日々を経て、ようやく日常に復帰。
月曜はひたすら睡眠とって起きてからDVDでバカ映画、火曜は家事雑用+散歩がてらに恵比寿で買い物、水曜は整体と机周りの整理してDVDでバス男、木曜はネット関係の雑用、金曜はアンソロジー短編の著者校やって、親方と食材の買い出し、〆切間近の短編ネタ考えながらソプラノズで至福の時間。もうなんかソプラノズは食い入るように観てしまうので、夢の中にまでソプラノ・ファミリーが出て来てしまう。
本日土曜は「海さくら」イベントで江ノ島へ。
藤沢の広太の店に寄りたいところだが、明日も親方のライブがあるので早仕舞いして帰宅の予定。
ふと思う。
芝居で喰うのを止めようと決められたのは、何もしていないときでさえ自分が役者そのものでしかないと気づいたときで、親方が音楽で喰わないのも、龍昇が会社作って社長をやってるのも、きっとそういうことなんだろう。
喰おうとしているわけでもなく、好きでやってるわけでもなく。
関係を保とうという意識すらなく紡いでいけるのは、血縁との繋がりに近い。
恋愛にも似ているね。
自分にとってそれがなんであるかと価値を測るうちは、手が届いていないのだ。
自分はなんぼのもんであるかと評価を待つうちは、遠く離れているのだ。
小説を書くことが、日常の中で当たり前になってきたんだなあと感じて、
もはや私は小説家なのだと知った。
小説家になろうとしたことはなかったけれど、小説家であろうとしていたから、
この発見はなんだか嬉しい。
あの人やこの人に、にやっと笑って「なめんなよ」と言えそうな。
わたしがそこにいることが芝居なのだと言えるようになったのは、いつからだったか。
それは、あなたがそこで観ることが芝居なのだと言えるようになったからだった。
わたしがそこに書くことが小説なのだと言えるようになるのは、いつからだろう。
あなたがそこに読むものが小説なのだと、今にも言えそうで。
努力する人に、わたしは冷淡だ。
努力に価値があると信じる人には、本当の価値など見えていないから。
自分に恥じ入り、圧倒的な敗北を噛み締めて、ひたすらに耐え続ける人を賞賛したい。
自分を信じる人に、わたしは冷淡だ。
信念は、概ね、間違っている。
信じていようがいなかろうが、それとしかいられないと諦めた人を賞賛したい。
そうでなくいられる方法を探し続けている間だけは。
ああ、他人のことを考えると、気持ち悪くなる。
- 2006/09/30(土) 10:12:33|
- 雑感
-
| trackback:0
-
| comment:2
あたしにとって、考えても気持ち悪くならない、数少ない他人のうちの一人です。
- 2006/10/03(火) 09:13:34 |
- URL |
- あ #-
- [ edit]