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コインランドリー」、更新しました。
朝っぱらから届いたばかりのSimpson's Movieを、立て続けに二度、最初は吹き替えなしの日本語字幕で、次はテレビ版の声優さんの吹き替えで。
シンプソンズ、初代夫の元妻がうちの娘のためにビデオに録画して送ってくれたのを観たのが最初だった。
アニメだから突拍子もない展開になるけれど、笑わせるディティールに嘘がない。こういう人がやるだろうなってことをやるべきタイミングを外さずにやるから、どのキャラクターにも人としての嘘がなく感じられるし、バカバカしいことにも気持ちよく笑える。
今考えてみると、幼稚園児にこれを観せようと思った初代夫の元妻は、ハイセンスな人だったんだなあ。彼女が生きていたら「モグラ町」にもぴったりだったかもしれない。今さらだけど、もっと彼女を知りたかったと思う。
あたしは、個人的な感情というものが、厄介でしょうがない。自分のも、他人のも。
物事に関わるとき、それが挟み込まれることが、何よりも不快だ。
感情は誰にでもあるし、常に揺れ動いているものだし、自身にとっては何よりも重要な根拠になり得るものだけれど、実際のところは感情ほど不確実で不安定で不透明なものはないわけで、それを恥じることなく見せる人や、疑いなしに感情を基準にして動く人や、感情を尤もらしく振りかざす人が嫌いだ。
感情には正しいとか間違ってるとかの区別がつけられない。理屈が通らない。筋道がない。一方的で、暴力的だ。
感情なんてもんは、全力で抑えてもどうしようもなくうっすら透けてしまうくらいがいい。
抑えようとする人のそれは汲んであげたくもなるけれど、隠そうともしないそれはパンツ穿かないで表を歩くのと同じで、見たくもないものを強制的に見せられるという大変に迷惑なものにしか感じられない。
しかも、そういうことをする人はたいがい、自分のそれをコントロールできないし、他人に理解してもらって当たり前と思っていたりするから、尚のことたちが悪い。
あたしは、他人が内側に隠しておこうとする部分を覗き込みたい性質なので、感情を露にしている人にはあんまり興味が湧かない。躊躇せずに表に出してしまえる感情なんてのは大むね単純なもので、見えているその裏を覗きたい知りたいと感じさせられるほど、複雑であることなど滅多にないし。
そして、他人の感情ってものは、運良く覗けたとしても、100%の理解や共感に結びつくことがない。勿論、思考も同じことなのだけど、物事の道理を理屈に当てはめて納得できるかどうかがせいぜいだろうと思う。だから、物事の道理を一視点で簡単に歪めて、あたかも正論のように化かしてしまう感情は、常に理解の邪魔になる。
勿論、感情を排して生きていたいとは思わないし、あたしにとって個人的な感情は商売道具でそれ以上でもそれ以下でもないから、すり減らないように使いたいとは思うのだけど。
よって、面白いことや楽しいことはみんなで分かち合いたい、という共有幻想にも反吐が出る。面白いことや楽しいことは人それぞれ違うのだから、みんな自分一人で噛み締めてじっくり味わえばいいじゃないか。
分かち合いたい人って、なんだかそういう物事に出逢ったときの理解が浅いように見えるんだよなー。「みんなで分かち合う」ことの楽しさでいっぱいになってしまって、歓びの素をじっくり味わえていないんじゃなかろうか。嬉しいとか楽しいとかっていう自分の感情についての考察が、表面的なままで終わっていやしませんか。
そういう人が、自分の感情の深みを抱えきれなくて、挙げ句に他人にヌケヌケと自分の感情をぶつけるのかもしれない。
自分の感情の本質が自分で掴みきれなければコントロールなんてできないだろうし、それを胸の内に収めておくだけの器も育まれていないから、感情を他人に押しつけて、「誰かわかって、わかってー」と駄々をこねて。
自分だけの理屈を押し通そうとする狂人と、自分の感情を当たり前に振りかざす狂人のどっちかを選んで一生を共にしろと言われれば、あたしは迷いなく前者を選ぶ。
だって、理屈と理屈はぶつけ合って闘えるけど、感情と感情はぶつかればどっちにも傷がつくから。
精神的に未成熟と言ってしまえばそれまでだけど、要は、感情的な人には個としての経験値が少ないんだろう。
個としての経験ってのは、つまり、読書でも映画でも音楽でも、「自分だけが感じ取る何か」の積み重ね、圧倒的な力。他人が共感してくれなくとも自分だけは間違いなくそう感じるっていう、拭っても拭っても落ちない汚れのようなもの。感受性という恥。
個として感じることや考えることが足りていない人は、きっといちいち確かめたいんだろう。折り合わずに喧嘩になってもいいから、感情で他人を傷つけたり傷つけられたりすることで個の存在を証したい、てことなんだろうか。もしや、そういう人には共感が最大の理解だったりするのかもしれない。
多分ね、感受性が強い人は、必要以上に感情を出さないんじゃないかな。
だってしんどいし、うっとうしいし、恥ずかしいもん。
感情ってのはコップの水に入れた硬貨みたいなもんかね。
一円玉は軽い分、上がったり下がったり、いっつも水面でちらちらしてさ。
十円玉は沈むからなあ。そんで、それを曝そうと思ったら、ざばーっとコップの水を全部空けないとならん。そうすると、また空のコップに一滴ずつ個の感性を溜めていかなきゃならないでしょ。だから、十円見せるのが、しんどい。
底に沈んだ硬貨を確かめなくたって、コップの表面の、さざなみでいいんだよね。
さざなみで、揺れてるなってわかれば、十円か百円か五百円かわかんなくてもね。
一円玉ぷかぷかしてると、「けっ、一円じゃん」って 笑
ま、つまり、感情見えなくてヘラヘラしてる人がいい。
そういう人がヘラヘラしながら「悔しいんだよなあ」とか言うと「へえ」ってなる。
あたしは、そういう人を面白いと思う。
しかしながら、そういう人物を小説で描くのはまっこと困難なのだ。
- 2008/03/19(水) 19:56:31|
- 雑感
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| comment:5
こんばんは。やたら「分かち合いたい人」平プロです。どうも。
思うんですけど感情というのは自分自身の折り合いとして
分けられるものではないでしょうか?
これは分かち合いたい!これは一人で噛み締めたい!といった具合に。
「面白ことや楽しいことは人それぞれ」たしかに。
たしかにそのとおりですよね。危険(?)なのは「分かち合うことの快楽」を知ってしまうと
分かち合える場所に分かち合うこと目的で出向いてしまうようになることです。本末転倒ですよね。
Jリーグクラブ、ベガルタ仙台の有名なサポーターズソング(応援歌)に以下のような歌詞が。
「俺たちは試合なんか見ちゃいない。ただ応援したいだけさ♪」
この気持ちが理解出来るかどうかが分岐点かもしれませんね。
ちなみにパンツは100円ショップでしか買いません。
色も柄も生地もどうでもいいです。大切なのはサイズだけです。
- 2008/03/21(金) 21:57:34 |
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- 平プロ #-
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どもども、御世話になってます。
>感情というのは自分自身の折り合いとして 分けられるものではないでしょうか?
ううーん、自分自身の感情を呼び起こす元となる体験に関しては、「分かち合いたい感」も理解できるんですけどね、つまり「応援したい」みたいなね、けど、そうやって応援することで得られる歓びの中には、人それぞれ別の意味合いや価値みたいなものがあるんじゃないでしょうかね。自分の内側にあるそこの部分をじっくり見るかどうか、って違いなんだと思うし、そこまで共有するのはあり得ない、と思っているんですが、サポーターとかやってみると全部丸ごと共有できるような感覚になったりするんだろうな、とは想像できます。で、それが「分かち合うことの快楽」なのだろうと。
まあ、それって錯覚じゃんよ、って思ってもいますけど 笑
パンツは消耗品ですもんねえ、お金かけたくない気持ちはよくわかります。
けど、それって自分への評価を放棄するというか、自分への裏切り行為のような気がして、小心者のあたしはついついそれなりにお金を使っちゃうんですよね…中身で勝負しようという度胸がありません 笑
- 2008/03/21(金) 22:36:01 |
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- まえかわ #-
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