携帯小説に負けていられないと気張る志も失くすわけにはいかないのだけれど、
実際のところ、どうなんだろうか、職業作家にとってのそれは。
ってことを、かれこれ三年近く考えていた。
数年前、あたしのラビである二村監督と話していて、「前川が男名前でエロ小説を書いたら萌える」と提案された。
「ごつい男名前でえぐいエロなんだけど、著者近影は威張った少女みたいな女だったら、萌えー、ですよ」なんだそうだ。
ふむ、はてしかし、意図は違うが、それは小劇場時代にすでにやっている。
今さらアイデンティティの模索でもあるまい。
ただ、その手の仕掛けは好きです。
デタラメの外国人風ペンネームで、ありもしない海外小説のありもしない翻訳もの、というコンセプトで書きたいとか、そんな話を編集者に持ちかけて「はあ…」と聞き流されることも多い。
未だ小説家として名前が売れてもいないのに、より知られていない名前で本を出すことに価値があるとは思えないという考えや、もっと真っ向から自分の名前を使って勝負してください!という激励のふりをした叱咤や、様々かつ至極尤もな反応があって、しょぼしょぼ取り下げてきた。
あたしの本は、どうしたら売れるのか。
暇なときは考え続け、原稿を書くときには考えないようにして、数年。
出版不況と嘆きつつ、携帯小説は、もの凄い勢いで売れている。
これは、単純に羨ましい。
売れているのは、携帯小説サイトに投稿されていた、横書き横組みの、改行が多くて、装丁が可愛らしくて、三十分くらいで読めるような、恋愛小説。
語りかけるような文体、主人公の一人称、これまで胸に秘めていた悲しい過去の浄化としての小説。
右開きの横組みで小説を読むことに抵抗のある人も多いはずだし、そもそも携帯の小さな画面でちまちま小説を読むことに生理的な拒絶反応を起こす人も未だ多いのだろうけれど、ま、世の中では、そういうもんが売れている、というのは事実なわけで。
そこに読者がいる限り、縦だの横だの言ってる場合ではない。
そのスタイルなら読む、という読者がいるのだから、そのスタイルを会得して、是非にも読んで戴きたい。ひいては、本を買って戴きたい。切望です。
てことで、「ブルーハーツ」という携帯小説を、横書きでやりました。
何が違うって、書くときのリズムが、やっぱり全然違うのですね、縦と横。
難しい漢字は避けてとか、一文はできるだけ短くとか、携帯の小さな画面で読むときの利便性ってのがあり、そういうことも少しずつ覚えた。
思うに、縦向きの文体、横向きの文体という違いもあるし、文体に向き不向きがあるんだから内容もそうだろう。
幸い、縦書きの文芸短編に仕立てるには今一つパンチが足りない、けれど棄て難いネタが、あたしにはたくさんあった。
これは、横書きで活きたと思う。
縦にはない親しみ易さ、一人称で突っ走れるスピード感を得て、横書きのためのネタだったんだなあと思えるだけの、満足感があった。
が、あれは書籍化にするとき、縦組みにしたのね。
せっかくの作品が、横組拒絶派に読んでもらえないのは勿体ない、ということだったのでしょう。
「これは、立派な文芸作品です!」と言ってくれる編集者がいて、そうなった。
携帯サイトでは横組みでするする読んでた読者が、ちょっと頑張って縦組みになったのも読んでくれたらいいかな、とも思った。
あたしは携帯小説を書いたつもりだった。
携帯小説なんだけど、縦組みにすればそれなりに文芸になってんじゃん、みたいな。
しかし、書店では、棚の問題があります。
携帯小説コーナーというのが設置されている書店でも、「ブルーハーツ」はそこにはなかった。新刊なのに、一般文芸の棚で棚差し。
ひと月に刊行される新刊の数は、男性作家/女性作家に分けたとしても、携帯小説より一般文芸の方が圧倒的に多い。
なのに、コーナーの大きさは同じくらい。
あっという間に棚差しされ、売れたらすぐに他の本に場所を奪われ、売れなかったらすぐに外されるんだろう。
あたしがしょぼしょぼそんなことをやっている間にも「恋空」は百万部売れている。
横書きしたくらいで自己満足している場合じゃなかった。
ブログだって横書きだし、PCの画面は殆どが横組みの文字なんだし。
本が縦書きであることは文化だけれども、縦組みの本が希少価値を持つ時代はもうすぐそこに来ているんじゃないだろうか。
我々職業作家は、そうなったときにも「横じゃ書けません」と言うのか。
横組みで出された小説と並べられて「つまらん」と言われるとき、「別物ですから」と言い訳をするのか。
んな馬鹿な。
- 2008/07/11(金) 00:50:11|
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