日曜に親方の職場で大島渚の
「絞死刑」鑑賞、愉快なアングラ、松田政男の大好演に改めて敬服。
一緒に帰宅したら、二人とも風邪が悪化。
地上波で「情熱大陸」、馴染みの洋服屋のデザイナーの仕事ぶりに魅了される。
デザイナーが、「真面目であること」を大事にすると話していた。
ああ、だからあたしはここの洋服がこれほど好きなのかもしれないと思った。
実は、このドキュメンタリー番組のため、コメント収録に協力したのだが、オンエアには使われておらず。このブランドを愛用する普通の人として写されていたわけで、もちろん事務所には通さず、素材の段階では使われるかも判らないので、誰にも言わずにいたのだが、コメント収録終了後に、得意げに着ていたかっちょいいパンツのフロントが全開していたことに気づいて、見物していた親方と大笑いという顛末。
収録時には目が届かなかったとしても、編集段階では絶対に気づかれていただろう。使えない素材を撮らせてしまって、スタッフの方々には申し訳ないことをしたと悔やんだが、普通の人ってことで、ご勘弁。
正直、コメントが使われていなくてほっとしました 笑
それにしても、女優なんて現場での共作なんだよなーと、改めて思う。
「女優」と呼ばれるのが嫌で、意固地に「役者」と言い続けてきたのは、それが理由だ。
タレント然り歌手然りセレブリティー然り、「浜崎あゆみ」とかってのは、やっぱりスタイリストやプロデューサーやレコード会社や所属事務所やなんやかやの、共作として存在する「作品名」なんだろうと思う。だから当然、「浜崎あゆみ」に肉体を投じている一女の子の勝手な事情で、作品である「浜崎あゆみ」に傷をつけるわけにはいかないわけで。
スキャンダルを個々の問題なんだからいいじゃんねえ、とは言えない仕組みの上に成り立っている商売ってことが忘れられがちだけど、その仕組みを承知して、引き受けることができるのが、プロなんだろうから。
つまるところ、そういうお仕事は、たくさんの株主を持つ大会社の社長みたいなもんだろうと想像している。
大企業の社長やってても、社長の器じゃない人ってのも、実際いるわけで。
それと同じように、大勢の人が関わる作品の看板を背負いきれないタイプの人もいるんだろうし、その違いは素人目にもくっきり判り易い。
あたしは、身近にいる、歌をうたう奴や、芝居をやる奴に、そういうプロ意識を持っていて欲しいと思ってしまう。
それは、確かに今すぐ必要なものではない。
ただの、姿勢、心がけ、志という範疇だ。
だけど、一曲の歌、一本の芝居に対して、まさしく我が物顔を見せられると、単純に不快だし、面白くないんだもの。
プロであって欲しいと願うのは、共作を支える一人一人の顔を覗き見たいからだ。
僕の歌です、私の芝居です、とやられると、途端に鼻白む。
これが作品です、という提示があってこそ、それを作っている誰かの顔が見えたときに、響いてくる。
歌や芝居そのものが持つ力に対して、個人の能力はなんと無力なんだろうと思い、その無力が束になって、それほどの何かを生み出す奇跡に、胸を打たれる。
というと、大げさだけど。
平たく言えば、一人分の思いなんてのはたかが知れてるじゃないか。
一人分のそれに、わざわざ自分の時間とお金を費やすだけの価値を感じない。
人の前に立つ、世の中に何かを出す、というのは、そういうことなんじゃないか。
アマチュアであることに罪はなくとも、アマチュアであることに甘んじているのは不真面目なんじゃないか。
その不真面目さが、不快だ。
安い服を着たくないと思うのは、それと同じだ。
デザインやブランド名だけの値段ではないはずだから。
てなわけで、決してお安くはないここんちの洋服に、毎シーズン大金を貢いでいる心情の言い訳が立った。
勿論、納得したのはあたしだけで、親方にはキチガイ呼ばわりされているけれど。
- 2006/10/17(火) 15:40:59|
- 雑感
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