持ち直したココロを更に持ち上げるべく、自分検索で出て来た記事を片端から読む。
書評、読書記録、読書感想…たくさん、あるのです。
出版社が申し訳なさそうに伝えてくれる数字はいつも初版止まりで初版部数も減りつつある昨今ですが。
見えているつもりで見えていなかったのだなあと、改めて思います。
ネットで見つかるだけでも、これだけの人が読んでくれているのかと。
気に入ってもらえたら嬉しいし、気に入ってもらえなかったら残念だっていうそれだけで、読んで戴けることだけで大変にありがたい。
だがしかし、作家も商売なので、本が売れなきゃ出せないのであります。
読んでもらえりゃ万々歳とは言うものの、本音としては、図書館、ブックオフ、アマゾンのマーケットプレイス、ヤフオク、などをご愛用の皆さんにも一度は定価で買ってくれとお願いしたいわけで。
アメリカのスーパーでよくある2buy1freeのパターンで、2free1buyくらいにして戴けないものかと。
100円の価値しかないと言われれば返す言葉がないのですけども。
ま、ね、本、高いからね。
やっぱり読んでもらえれば、何よりです。
本が出せなきゃ作家じゃねえよなあ。
それとも、読者がいれば作家なのかねえ。
個人的には、「書け」と言ってくれる編集者がいるうちは作家なんだろうと思うけど、本が出せなきゃ食えないし、食うためにバイトなんぞし始めた日にゃ普通にフリーターじゃん?
恥ずかしながら、これまで食うためのバイトをしたことがありません。
芝居やってても食えてました。
バイト経験はあるけれど、大人の学校と割り切っていたし、平均三ヶ月しか続かなかったし、時給より面白そうな仕事を選ぶ余裕があり、大概は結婚という逃げ道を利用していたし。
だからなんかもう、この年齢になって初めて食うためのバイトをしなきゃならん状況になっても、切迫感がないというか、まだまだ逃げ道が見えているというか、食うために必死になれないだろう自分がとことんダメ人間な感じで、いやですね。
別にバイトしてたってモチベーション次第で小説は書けるだろうし、「お前の本なんか二度と出してやらねえ」と意地悪されているわけでもないし、「あなたは作家として認められない」と宣告されたわけでもないので、構わんのですが。
世の中の、食うために懸命に働く多くの人に比べれば、甘ったれたダメ人間だよなあと。
編集者はもっと辛いかもしれませんね。
本を作るために日夜働いているはずなのに、本が作れない現状なんてね。
なんのために働いているのやらと、食うためだったらもっと楽な仕事するのにと。
紙の値上がりで小説誌は薄くなり、広告を出していた会社の広告費も激減。
ただでさえジリ貧の小説誌は、壊滅状態。
休日に好きな作家の小説を貪り読むことを何よりの楽しみとして毎日の仕事をこなしてきた製紙会社の人なんかは、ジレンマに身悶えしているでしょう。
iPhoneで手塚治虫が読める時代、本はもはや嗜好品、むしろ贅沢品です。
しかも手放したって二束三文で資産価値がないものばかりが作られている。
誰がどこで間違って、こんなことになっているんでしょうか。
それでも、わずかなバイト代を握りしめて書店に行き、散々に迷った挙げ句、一冊の本を買って帰る歓びが、あたしにもわかります。
その本の表紙を開くときの幸福感を知っています。
一冊の本を自分のものにするために支払うお金が100円でも、図書館まで自転車を漕いでった労力でも、順番待ちする時間でも、同じことです。
だから、つまんない小説は書けないのです。書かないのです。書いちゃいかんのです。
本は、面白けりゃ売れます。
面白いってのは満足度とはまた違う、今読むべきもの、というポイントでの価値ですね。
売れない本にも読む価値のあるものは多いのですが、それは幸運な趣味嗜好の一致による評価であって、その時代、その時代を生きる人に必要とされるものが、結局は売れています。
別に今読まなくてもいいやと思えば、図書館を利用。
たくさん読む人には、その方がいいに決まってます。
そうやって数ヶ月遅れで読んだものでも、「読んで良かった!」という満足感があって、「これはまた読みたくなるかも」というくらいの印象があれば、その本が欲しくなるかもしれないけれど、その頃にはもう探せばうんと安く売られているのが見つけられるでしょう。
その本は、十分に幸福です。
「つまらん」と思われても、図書館や古本屋の棚にまた収まって、次の出会いを待つことができるのだから、それで十分だと思います。
がしかし現実的には、そういう本の作家は、次の本を出すのが難しくなるのです。
世の中の仕組みはまったくもって不可解ですな。
作家生活十年目を目前にして、次の本の刊行予定は今のところ一つもありませんぜ。
というわけで、あたしはバイトをしようと思います。
「今、読むべき」価値のある小説を書くには、食うために働く人となって世の中の不可解をもっと体感しなければとも思うし、何より犬を飢えさせるわけにはいかんのです。
犬の寝息がすうすう穏やかに聞こえる状態でなければ、あたしに小説なんぞ書けません。
みんなが当たり前にやってることを尤もらしく宣言したくなるあたり真実ダメ人間だよなあとは思っていますが、これは、食えなくとも「もういらん」と言われるまで作家で有り続けようという決意でもあります。
もうね、トーキョーなんか捨てて韓国に移住しようかとか、小説書くのなんかやめて食堂のおばちゃんにでもなろうかとか、本気で考えていました。
が、それを考える一方で、小説のネタを思いついちゃったりするので、これはどうしたものかと。
ひとまず、あと二本は、きっちり長篇を書こうと思います。
つまり、二本分は長篇のネタがあるってことです。
それ書いたら、きっとちょうど十年なんで、そのときにまた身の振り方を考えようと。
大きくなったら何になりたい?って、こんなに育ってしまった今もずっと考えていて、「ヘリコプターの操縦士」か「宇宙飛行士」が有力候補だったのだけど、もう普通の寿命じゃ間に合いそうもないので、今は「韓流スター」か「食堂のおばちゃん」を目指しています。
もう小説はいいや、って自分で見切れるような小説を書けたら、新しい人生が始められるでしょうか。
それとも、そのときはまた、次のネタを思いついてしまうのでしょうか。
そもそも、そんな小説を書けたら、本が売れて食えるようになるのでしょうか。
個人が身の振り方を悩めるのだから、平和な国ですね。
選択肢があるってことだもんな。
死ぬまで小説を書くしかすることがないとか、一生芝居やってくしかないなんてのより、ずっとましだと思います。
多分、あたしは「食うこと」と「働くこと」と「生きること」は、それぞれ別物だと信じているのです。
ビバ、サバイバル。
- 2009/05/06(水) 03:33:27|
- 雑感
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ぼくは、食堂のおばちゃんもやった前川さんの書いた小説が読んでみたいです。
もしそんな人がいたら、プロとして小説も書いてる食堂のおばちゃんを、ぼくは間違いなく尊崇します。
このまま小説家を続けて行く前川さんが書く作品も、もちろん楽しみにしています。
自分の力で手に入れたものが足されてゆくのは、この先への希望も増やすことになりますね。
前川さんが以前ブログに書かれた、「青年よ、大志を捨てよ街へ出よ」(間違ってたらごめんなさい)という言葉を想うと「さあ自分も、ちょっとは人の間で何者かになろう」、と思う力をいつも得ることができます。
- 2009/05/07(木) 19:12:06 |
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んもうね、最初の一行で泣けます 笑
ありがとう。ほんとにいつも。
いや、作家なのか小説を書きたい人なのかって、ずっと答えられずにいたのだけど、そうやって言ってもらって初めて、自分は小説を書きたい人なのだと思いました。
この先、そう言えるかどうかはわからないけど、少なくとも今は言えます。
ありがとう。
- 2009/05/08(金) 02:44:56 |
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