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デヴィッド・リンチの「インランド・エンパイア」、筋立ても視覚効果もイメージの挿入もリンチ映画の中では格段に判り易く、リンチ初心者向け、だけどこれはリンチの映画じゃなくてローラ・ダーンの映画だな、という感想。

何故ローラ・ダーンの映画なのかを真面目に語ると長くなるので一言にすると、「あたしの体験にそっくりだったから」だが、この映画はどういう評価を受けているのかが気になって調べたら解説サイトがありました。

あたしがこれとクリソツな体験をしたときには入院したんだから、この解説はあながち的外れなものではないと思うけど、勝手に補足します。
主人公の設定が女優

これは「○○○○○が○○するまでの過程」を描いているわけじゃなく、ものすごく正確に「演じる感覚」を描いてみたら「○○○○○が○○するまでの過程」を描いたとしか思えない映画になってしまったのだと思います。
きっと、ものすごくローラ・ダーンからヒアリングしてるんじゃないかと。

しかし「○○○○○が○○するまでの過程」であると括るのはある意味正しい、あたしは「演じる感覚」てのはクラインの壷だと思っているのだけど、その状態は通常の世界ではないし、通常の感覚を持つ人には決して共感し得ない、「観られている感覚」ってのは筋違いで、「観られていることに馴れ切って観られていることを忘れてしまった」結果、観られることでしか保てなかった自我を一瞬にして喪失、代わりに与えられた役柄を通して自我を保とうとするので自分が誰なのかわからなくなる、所謂キチガイとなっている状態なので、演じる感覚がない人には「○○○○○が○○するまでの過程」としか思えないんだろう。

つまり「演じる感覚」=「○○○○○が○○するまでの過程」であり、演じている人=○○○○○であり、その一線を引くのは「環境」なんでしょうかね、メーター振り切ったらあっち側だけど、役者は滅多なことじゃメーター振り切らない、何故なら演技には段取りというものが必ず必要だからで、振り切ってたら段取り踏めないじゃん、ってことですな。

クラインの壷感覚のことはもう十四、五年前にアクターズ・ジークンドーという小冊子に書いたのだけど、映画で描かれているあらゆるドア、カーテン、壁…からなる迷宮そのもの、「あ、こんなところにドアがある」と思ってドアを開けたら異次元があって戻ろうとしても戻るドアがない、別のドアを開けるとまた他の異次元、日常は「いつかどこかで見た断片」に過ぎず、セリフを奪われた役者には喋る言葉もなく、目に映るすべてが偽物に見え、自分が誰だかなんてのは一瞬にして見失い、夫や娘すら「いつかどこかで見た誰か」としか思えず、時間軸が歪んで昨日が明日になり今日は永遠に終わらず……とまあ、そりゃあもう面白くも恐ろしい体験で、あの時期病院に入れられなかったらあたしは確実にあっち側から戻れなくなってただろうと思う。
あたしの場合、兎頭は見なかったがその手のタイプの他のものはたくさん見たし、街を徘徊もしたし、誰かを撃つ銃がなかったから革ベルトで自分の首を吊って、病院送りという顛末。

映画を観ている間中、怖くて怖くて切なくて、それでもどこか「ああ、そうそう」と懐かしがってる不思議な感覚。
あ、そうか、デヴィッド・リンチは女優と散々付き合ってる人だっけ。
じゃあやっぱりリンチの視点で「○○○○○が○○するまでの過程」を描いてるってことなのか。
つうかやっぱり普通に「ザ・女優の世界」を女優視点で描いてるとしか思えない。
ローラ・ダーンて全然好ましくないタイプの女優さんなのだけど、この映画やるの、きっと苦しかったと思う。

女優さんがこの映画観たら、色んな方向に絶望しちゃうんじゃなかろうか。
あたしだってデヴィッド・リンチの映画でこんなに共感しちゃうなんて、やだ。
  1. 2009/05/28(木) 04:05:18|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:2
<<タイトルなし

comment

「演じる感覚」についてのお話を読んで、初めて来た町を歩いているときの感じを思い出しました。
ぼくは知らない町を歩いていると、ときどき始めに「夢の中にいるみたいだ」と、ちょっと危うくなることがあります。自分が見ている光景が、前に見たことのある物々の別の組み合わせみたいだと感じたりして。
「いけない、自分でいなきゃ」と思って踏みとどまるのですけど、それがうまく行ったあとは、なにか解放される気分になるんです。「自分でいなきゃ」と自分の振りをするのだと決めると、これ以降は今感じているもの全てに対して演技するのだなと思って。少なくとも、部屋で一人で過ごしているときの自分からは自由になるんです。
こういう開き直りは狂気に近いことだろうけど、年々老い劣化し変化して、それでもその自分を自分と認めて生きて行くことは、なんてマッドなんだろうと気づいたのはいつ頃からなのだったかな。
ドントトラストオーバーサーティ。
  1. 2009/05/30(土) 20:59:12 |
  2. URL |
  3. レフ #-
  4. [ edit]

>レフさん

その解放感、演じる感覚に近いのかもしれません。
あたしは、舞台に立っているとき、お客さんの前に立つときが、どんな自分より自由だと感じるし、何より現実として実感できます。どんな役をやっていても、です。
その感覚自体、すでに矛盾していることだから、やはり狂気の一種かもしれないけれど、その感覚が自分の中心に根深くあるので、普段の自分はいつもどこか窮屈で自分の役じゃない役柄の演技をしているような気がしてしまうという二重構造の狂気を作っているのでしょう。

レフさんの感覚が、誰にでもある狂気の一部分だとしたら、女優っていうのは、その一部分の中だけで生きている存在なのか。
ますます、人でなし、だ 笑

  1. 2009/06/01(月) 17:10:44 |
  2. URL |
  3. まえかわ #-
  4. [ edit]

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