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仕事部屋

自分が自分らしく、自分のままでいられるよう死闘していたのは、いくつくらいまでだったかなあ。
自分とは違っている何かを認めてしまうと、自分を否定することになってしまうような怖さがあって、何もかもを否定するのに必死だった頃。

やり切れないくらいに絶望して、正当じゃないくらいに自分を小さく丸め込んで、そんな卑屈なところも自分の中にはちゃんとあるんだと知って、卑屈さを正当化するために、それまで絶対に嫌だと思っていたみっともなさや厚かましさを、かさぶたみたいに拡げてきた。

私は、自分が思っていたよりずっと狡くて、みっともなくて、厚かましくて、ちっとも美しくなんかないと飲み込むのは、たいそう苦しいことだったけれど、そうするしかなかった。

そうなってみると、それまで美しいと思っていたあれこれが別のものに見えた。
それはまるで美しく彩られた何かのように見えていたのに、自分が重ねてきたかさぶたと同じものだった。

かっこよく美しく生きている人なんて、一人もいなかった。
だから、かっこよく生きたい、という思いより、みっともなく這いつくばってでも生きたいと、思えるかもしれないと自分にも期待できた。

実際には、未だにそうは思えていなくて、自分が生きていることは罰なのだとしか思えないのだけれど、這いつくばってでも生きることが正しいことだとは判った気がした。
生きていくことは大前提だ。だからこそ、しんどい。

結局、ただ自分の中のぐじゃぐじゃした汚らしい気持ちで自分自身が窒息しそうになっていたのだけれど、それらの汚濁を浄化することも除去することもできなくて、押し殺すか、誤摩化すか、首までどっぷり浸って人前から姿を隠すか、のどれかを選ぼうと足掻いているだけだった。
どれも不本意な選択なのに、どうしてか、そこから選ぶしかないように感じていた。

皆、汚濁を飲んで生きていると頭では知っているつもりでも、まだ自分自身の立ち位置に何かの理想を持っていたのかもしれない。
理想として括ったことはなかったけれど、「嫌だ」と否定するものの多さは、そういうことだったんだろうと思う。

あなたは、才能もあって仲間もいて行動力もあってまだ若くてたくさんの出逢いがあるのに、どうしてそんなに自己評価が低いの?

長年会っていなかった親友と再会したとき、心底不思議そうにそう言われた。
当たり前のことなのに、そんなふうに考えたことがなかったから、胸を射抜かれた。

気がつけば、こんな状態で人に逢うのは嫌だ、こんな気持ちで何かに取り組むのは嫌だ、こんな自分に何かを与えられるのは嫌だと、いつの間にか、自分自身を否定するばかりになっていたと、気がついた。

急に自己評価を高めて自信満々になったところで、やることなすこと頓珍漢で、周囲を呆れさせもしたけれど、その振る舞いが大層みっともなかったことで、ようやく、自分はみっともないんだと、そういうふうにしかできないし、ならないんだと、本当の意味で飲み込めたような気がする。

何度反省しても同じことをしてしまうとか、泣き喚くとか、八つ当たりするとか、言ったことをやらないとか、約束を破るとか、些細な嘘をつくとか、人の気持ちを踏みにじるとか、しゃしゃり出るとか、しつこく食い下がるとか、失敗を誤摩化すとか。

やりたくないことをやってしまっている自分を、なんとなく許せる気がした。
自分のそれが許せたから、人のそれも許せるようになった。
非を許す、という受け入れ方ではなく、非ではないと思うようになった。

人はそうやって生きていくものだと。
みっともないことをしでかして、許したり許されたりして、みっともないなあと恥じ入りながら、生きる。
そんな当たり前のことを、どうしてあれほど複雑に頑なに捉えていたのかと、不思議なほど、あっさり飲み込めた。

幼少期からの苦い自己探求は、振り返ってみればただ、人との出逢いを重ねて、流されているうちに本流へと辿り着いたようなものだと思う。

育った環境や、生まれもった性質や、そうならざるを得ない経験の中で、そうなった。

出逢いたい、必要とされたいとの思いだけが常にあった。
それらの思いを伝える方法が他に見つけられなくて、結局は一番安易な恋愛という形を選ぶ。

求めているものが違うから満たされる部分も違って、恋愛関係を結ぶとあれこれのことで相手を傷つけてしまう。
多くの男の子たちは、出逢いなんてことに大した価値は持っていなくて、ただ恋愛を楽しみたいばかりだったりもするから、恋愛が終われば目の前からふいっといなくなってしまって、自分が傷つく。

あなたを大切にしたい、大切にされたい、形などどうでもいい、むすびついていたい、という思いを、「好き」と言うか、無心に身体を重ねることの他に、うまく伝える手段が見つけられなかった。

病的な博愛主義と同じように誰とでもセックスができた。
その真意は、「出逢いが大切」という出会い系主義のものだけど、そう言ったときに多くの人が誤解するままに、自分自身を誤解することになっていたのかもしれない。

もちろん、正しい意味合いでのセックスの尊さや、人が言う「愛」の感情を知らないわけではないし、価値も感じているのだけど、それらは意味合いが大き過ぎて、簡単にそうとは飲み込めなかった。
手軽で身軽な、握手のようなセックスを器用にこなすことはできないけれど、本当に好きな人と抱き合う幸せ、愛情の確かめ合いのような感覚をセックスで持つこともできない。

出逢っていなかった過去の時間を丸ごと飲み込むことの代わりに身体を重ねる。
愛だの恋だのじゃない、別の何か。

それを封じられてしまうと、自分の気持ちをどう伝えたらいいのか、たちまちに取り乱してしまったりする。
人が、自分の一番みっともない部分を曝け出して、無防備なまま向き合う、わずかな時間。
刹那的で、なんとも頼りない、身体が重なっているだけの曖昧なその時間が、一番信じられる。

身体が美しければストリッパーに、身体が丈夫ならば売春婦になりたいと、処女の頃から思っていた。

愛だの恋だのは、動物のようにいつでもどこでもつながるわけにはいかない人間にだけ必要な、セックスの代償なんじゃないか。

私の中のセックスには、恋愛感情と結びつくものが少ないのだろう。
それとも、恋愛感情そのものが、私の中で変質しているのかもしれない。
「好き」と言う、「好き」と思う、「付き合いたい」や「抱き合いたい」や、そういった恋愛感情の一切は、突き詰めれば自分の中でなんの意味も持たないし、その場しのぎに世の中のマニュアルを応用した、本質からかけ離れたものに感じていた。

こんなに大人になった今も、世の中の皆さんが「好き」と思うそれが、どんな気持ちなのか、なんだかぴんとこない。
恋愛関係で嫉妬心を感じたことがないのは、「好き」という恋愛感情の基本の部分が、偽物だからなんだろうか。

残念ながら、同性とのセックスは、もやもやしたことがあるだけでそのものの経験がないけれど、人として絶対に受け入れられる確信がある。
大切にしたい、大切にされたい、むすびついていたい、という気持ちは、相手が異性であれ同性であれ変わりなく望む気持ちだし、その気持ちを一番純粋に形にして伝えるには、セックスすることが、どんな言葉よりも一番自分の気持ちに正直な表現だと思うから。

だから、恋人でない人とセックスをすることもあるし、セックスしても恋をしないこともある。
自分の中にあるセックスの意味合いが守られていれば、セックスだけのつながりであっても淋しくはならない。
セックスのない関係は、淋しくて居たたまれなくて、すぐに逃げ出してしまうのに。

そう言うと、理解のないままにただ利用されることもあるし、それに傷つかないわけではないのだけど、それも結局は「必要とされる」ことに満たされて許してしまうあたりが、自己評価の低さにつながっていたんだろうか。

そんなことをぐずぐず考えているのは私が振られたからで、といっても結びつきを失ったわけではないから、なんだか振られた気がしなくて、ちっとも堪えてない、という自分の状態は一体なんだろうと考えていてこうなった次第。

私自身にも、私の思っていることの答は出せないままだけど、答を出すために考えたわけじゃなく、ただ、ちょいと押されたメトロノームのように、気持ちを揺らしながら考えている。

出逢ったことを本当に大切に感じてくれるのなら、恋じゃなくていい。
恋愛感情じゃないのかもしれないけれど、あなたを丸ごと飲み込んでしまいたい。
わかってあげることも、近くで支えてあげることも、助けてあげることもできないし、私はそうしない。
それでも、あなたを知りたい。

そういう気持ちを判ってもらうのは、きっと難しいし、判るように伝えられる知恵もない。
言えば怯えさせてしまうだけだろうと思うそばから、そのまんま言ってしまうのが、みっともないのだけど、「あなたが好きです」と一万回告げても、それが自分の心ではないような気がしてしまう。

もっと違う、もっと他の、本当に切実な、何か。
それを伝えることは本当に難しくて、裸の身体を差し出すのと同じくらい簡単に、思考や感情をそのままに伝達できたらいいのだけど。

押し倒さないから、逢いましょう。
高い所に黙って並んで立って、地上を見下ろしましょう。

ここに書けば、あなたにもそれは伝わるのだけど、私からあなたには伝えない。
「僕がここにいることを、決してあなたに告げたりしません」と、無様に不器用に、信じてみたりする。
返事なんかいらない。確かめたいわけではないから。
私もあなたも、伝えたいことの純度だけを高めていけたら、それが音楽だっていい。

ああ、かっこ悪いぞ、私。

こんな気持ち、恋でも慈愛でもないのなら、ただの自我なんだろうけど。
一つだけ、理屈じゃないところで明確に判るのは、人は誰かを想うとみっともないことになる、てことですな。


  1. 2010/01/12(火) 19:28:37|
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