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仕事部屋

今年最初のWSには12名が参加、うち新規参加は3名で先月見学に来てくれた警備員48才もいる。

前半は「素の表現方法」についての講釈と、「モグラ町1丁目」テキストから抜粋してテキスト解釈の方法を説明、後半は先月に続いて「箱のエチュード」、テキストの解釈と同じ方法でエチュードで与えられた設定を解釈するというアプローチ。

実践的エチュードには瞬発力が勝負でやりっ放しの部分があるが、WSでは「今やったことについて改めて考える」ことができる、それを繰り返すことで、「やる時間」と「考える時間」の距離が少しずつ狭まったら良いし、人のやってることを観て「あれこれ感じる」ようになるはず。

頭で理解しても自分がいざやるときには思うようにできない、やるときにはなんとなくやれるけど理屈としてはちゃんと理解できていない、という両極の問題は、結局のところ中心点である「実践方法がわからない」ということなのだろうと思う、実践方法とはつまり立ち方、「そのままそこにいる」ということそのものなのだけど、まだまだ「演じること」や「芝居という仕組み」について、どこかで見聞きしたり教わったりして植え付けられてしまった先入観が強く、皆なかなか自由に立てない。

「へらへらやる」ことと「ものすごく考えて作る」こと、「ものすごく演技が巧い人」と「まったく演技のできない人」は辿り着くところがおんなじだと思うんだけど、「演じる」ことを知っている人たちは何かをやっていないとそこにいることに自信が持てないのか、考えてやったつもりになってしまったり、やることで考えずに終わってしまったりして、全身くまなく働かせることに苦心する。

普段の生活でへらへら喋っている状態は、決して頭が動いていないわけではなくて、猛烈な働きを習慣化させているわけだが、「演じる」ときの「演じる」人は、頭や心を動かさずに台詞と段取りをこなす為の練習をしてしまうので、出来上がったとしてもそれは「普段の生活の自分」とはまったく違う状態の自分になってしまっている、だがそのことにすら気がつかずに「普段の自分そのまんまのふり」までしたりする。

彼らには、いわば「如何にも自然に見せようとする不自然さ」「無意識であろうとする意識」が分厚いかさぶたのようにまとわりついていて、生身の感覚が働かせられない、よって、「不自然であることが自然なのだ」「意識を持ってこその無意識なのだ」という理屈でのアプローチは、自分のどこをどう突つかれているのかを理解するまでに時間がかかる。

彼らは自分が身につけてしまった方法論の中でそれらを理解しようとするのだけど、「難しくてわからない」とか「うまくできない」状態で機能不全にさせることが一番「素」に近い状態になるから、こちらとしてはどうにも誤摩化せない状態に追い込むことで体感させようとする。

ものすごく単純なことだけをやっているんだけど、その実、彼らは意図せぬままにものすごく高度な、難易度の高い点を目指しているってことだよなあ、と思う。
ちょっと散歩でもしようと誘われてへらへらついてきて、そうと知らぬままにヒマラヤ登山させられてる。

だけども、「難しいしわかんないから、もういいや」とリタイアする人が少ないのは、皆理屈や方法論としてわからないながらも、感覚的などっかで「もしかして、こういうこと?」「これがそう?」と感じるからなのかもしれない、登山の心構えはなくても歩くことはできるから「この先は無理」ってポイントまではなんとなく歩けてしまったりするんだろう。

さて二日目の今日は、「センチメンタル・アマレット・ポジティブ」の抜粋を利用して、「考える」こと「やる」ことの組み立て方を、テキストとエチュードの両方からアプローチ、すんげえ難しいエチュードを用意してるんだけど皆やれるかしら、私にはWS中連続する朝までコースの飲みがヒマラヤ登山。
  1. 2010/01/24(日) 14:01:52|
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