水曜、小説教室二回目はプロット作り、事前に提出あったのは一名で他の受講生は皆その場で提出だったので一時間半丸々講評したが時間が足りずに十五分ほどオーバー、センターからは長め歓迎と言われているのだけど終了時間を予定していた受講生の方には申し訳ないことをした、次回はもう少しテンポアップを心がけようと反省、補聴器の方がいるので今回はマイクを使ってみたのだけどそれでもやっぱり聞き取りづらいとのこと、最前列に座ってくれるのに、ううむ困った、よい案ないものか。
犬をケージに幽閉していたのでヤスコたちに付き合わず直帰、早速提出してもらったプロットもしくはプロット用のメモを添削作業、メアドを書き添えてくれた人の分だけ先にスキャンしてコメントメールの下書き、メアドない分には次回プリントしてコメント付きのものを返す予定、提出物を読んでざざっと鉛筆入れて、それをPDFにして、鉛筆で入れたコメントの説明をメール文にする作業が一人分で約一時間、受講生は二十一名、今はまだプロット段階なので分量がそれなりだが本編に入ったら一ヶ月がかりでも終わらないだろう、センターの前例では1000枚とか送ってくる人もいるとのこと、その分量を集中して読むことを考えただけでも緊張するので、上限400枚に設定させてもらった。
編集業の先生だと原稿全部に本腰で朱入れをなさるらしい、本業の他に一ヶ月のタイムリミットで20人分の原稿にチェックを入れるのは正気の沙汰じゃないですよ、M・元小説S編集長!
とはいえ、こればっかりは性質の問題なんだろう、加減などわからないし、わかったところで加減できるとも思えない、コメント返した受講生の方やセンターの担当嬢からも「丁寧すぎて心配です」と言われているので、もう少し要領よくやるべきなのかもしれないが、ワークショップみたいに飲みながらともいかないし、一回目より二回目の方が顔と名前がつながってきて個々の作品テーマがより明確に見えてきたように思うし、皆それぞれの思い入れや長年の夢を抱えて、しかもお金を払ってきてくれているのだから、やっぱり心配されるくらいの誠意があって当たり前、教えるなんて大層な役割を引き受けた以上、個々の思いに向き合うには、誠意と丁寧さしか、こちらには見合うものがない。
私は〆切がないとついつい読み書きをサボってしまうたちなので、〆切仕事のない今の時期はきちっと集中して取り組むべき作業があることはありがたくもある。
ずいぶん前のことだが、新しく担当になった編集氏に「私のカレコレの作品を読んでみてください」とお願いした、後日その氏は「読み始めたんですけど途中でつらくなっちゃって読むのやめました」とニヤリ、「読み進むのがつらい出来である」という感想であることに間違いはないが、たとえそうでもそこんとこ堪えて最後まで読むのが仕事だろうと、なんとも納得のいかない、しかし強気にそうとも言えない、もやもやした思いになったことがある。
だから、小説教室をやりましょうと決まったとき、自分が書く以上にうまく書ける方法は教えられないけれど最初の読者になって読むことはできると、そこだけは責任を果たさなければならないと、誓うような気持ちになった。
プロットを提出するときの得意げな顔、自信のなさそうな視線、あらすじを解説するときのイキイキと楽しそうな輝き。
受講生と一括りに呼んでしまっているけれど、私より何十年も長く人生をやっている人がたくさんいるし、その人たちの人生の断片を読ませてもらうのに、片手間などあり得ない。
書き手として、読み手として、小説をナメんなよ、と思う。
それは労力とか能力とか賃金とか商品価値とかのもっと手前のところで、人の一部なのだ。
書いた人の一部であることはもちろん、それが誰かの手に渡れば、読む人の一部になる。
もちろん小説に限らない。
紙や文字が道具として使われるよりずっと昔から、人には「物語る」という本能がある。
そこんとこに触れる仕事をするのだから厳粛な姿勢にならざるを得ない。
自分が売文業をやっていく以上、人の文を軽んじれば必ず自分のそれも軽んじられるに違いないのだ。
文芸に関わるとき、書くことと読むことは、同じ姿勢でありたい。
芝居に関わるとき、やることとみることは、同じ姿勢でありたい。
大げさなようだけど、ものを作る人は誰だって、結局のところ、何十年もかけてその擦り合わせをしていくだけなんじゃないのか。
他人のそれが手本になるわけじゃない。
読み手としての自分を満足させるものを書くのが如何に難しいことか、また、書き手としての自分が満足できる読み方をするのは如何に過酷なことか。
演じ手に置き換えてもまったく同じことだし、洋服を音楽や料理を作る人も、皆同じに違いないと思う。
だけどまあ、ときたま、書きたいだけの人ってのもいる。
そういう人は、ものを作る人ではなくて書く人なのだから、電話帳でも書き写していればいい。
芝居で言えば、死ぬまで「外郎売り」でも暗記してろ、ってやつだ。
実を言えば、私は十年前まで、そういう人だった。
文字が書きたいというだけの欲求で辞書を書き写し、文字を読みたいというだけの欲求で電話帳を読んでいた。
ほんとです。
朝日カルチャーセンター「
プロ作家が教える小説創作 実作編」4月からの受講生を募集しています。
1月からの受講生はいよいよ実作に取り組む時期ですが、新規受講生はテーマ作りから後追いの形で進めていきます。
個別に対応しますので、戯曲を書きたい方もどうぞ。
- 2010/02/18(木) 03:29:05|
- 雑感
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