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仕事部屋

3.21

今日のエチュード、心の準備ができておらず酒の抜けない頭でオロオロ、「資本論なんか忘れてしまった」とイクマにメールしたら「またあの設定なんですか(笑)」と返信あって、何故だかまったく他の設定では考えていなかったことに気づいた。

キャラメルでやった二人芝居にも色々あるのだけど、イクマとやったそれは本当に濃密な時間で、舞台上の一時間は芝居の経験ではなく、事実として記憶されている。
たとえば、自分と自分の家族という関係を「もし友達同士だったら」と想像することが難しいように、何かもう圧倒的な事実としての、現実的な記憶。

つまり、芝居の台詞や段取りみたいなことは全然覚えていなくて、ただ「あのときイクマがこんな顔してた」とか「私たちがどう触れ合った」という断片だけが残っていて、恋人同士という設定だったからでもあるけれど、イクマはもう大昔にちょっと付き合って別れた男、な感じがしていて、それは当時、イクマも芝居をやった数ヶ月後に「なんだか僕は前川さんのことを別れた彼女みたいに思っちゃってるんですよね」と言っていたのだけど。

よくWSの飲み会で「扉の向こう側」という言い方をして話す、演じる感覚が消失する瞬間、というのがあって、それはつまりキチガイへの入り口みたいなものなんだけど、稽古して段取りでやっているはずの動作や、自分の言葉ではない台詞が、自分の日常の記憶と混同されてしまう。

身にまとう物と同じで、身体に馴染んだ下着はパンツ穿いてるって感じがしないみたいな、あれ?今日パンツ穿いたよな?と思うくらいの馴染み方。ゴムが当たって痛いとか、何か不具合があると一日中意識してしまうそれ。
芝居の記憶は、それによく似ていると思う。

イクマは私にとってすっかり身体に馴染んだパンツみたいな相手役だった。
エチュードだから、ものすごく頭を使って常に客席の雰囲気を測って異常な集中力で本番の一時間を過ごしているはずなのだけど、芝居をするという意識が消失して自分の日常の中の一時間になっていた。

きっと、イクマもそうだったと思う。
私とイクマは恋人同士の別れを毎日一時間ずつ演じて、お互いに毎日ものすごく傷ついて落ち込んで、また次の日に顔を見て「ああ、あれは芝居だよな」とちょっと救われて、それなのにどうしてかまた同じ一時間を繰り返してしまうという泥沼な精神状態に陥っていた。

一緒にいるのはほんとに楽しくて幸せだったけど、その本質は地獄で、終わってからしばらくは他のことができないくらいの喪失感があって、それでも何を失ったのかわからない、ただぽっかりと大きな喪失感という、ちょっとおかしな具合のあれは、他の芝居でも味わったことがあるけれど、イクマとのそれは設定が恋人同士の別れだったから、日常に紛れ込んでしまったんだろうか。

技術として気持ちを動かせるタイプが青木サボ、イタコ的に強烈な現実感を持ち込むのがイクマ、のような気がする。

あの時間がなんだったのか確かめたくて、その後も一度ワークショップの連中との芝居に出てもらったけど、そのときは違った。

一番最初に演じる感覚を消失したのは佐藤信が演出した「青ひげ公の城」という芝居に出たときで、あれから私はずっと、消失することだけを目指して芝居を創っているんだと思う。
演技する空間を日常の感覚で認識するとか、リアルな時間感覚とか、そういうのをあれこれ試して、どうしたら日常の時間に演じることを紛れ込ませられるか、どうしたら演じる感覚を消失させられるかを探り続けているのが、WSなんだと思う。

結局は人なのだと結論しても尚探求し続けているのは、人というものには実体がなく、ヘーゲル的に言う他者の認識でしか存在し得ないと考えることが基本になっていて、「どういう人のどういう状態があればそうなるか」と括った確信がどこにも持てないからなんだろう。

今はただ、別れた男との再会を前にして、ああどうしよう、何を話そうと、そわそわした落ち着かない気分。
よもぎコラーゲンパックとかしちゃったよ。
  1. 2010/03/21(日) 14:32:44|
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