六本木の国立新美術館へ「アーティスト・ファイル2010~現代の作家たち」を見物しにぶらり。
鮮烈な印象でたまらない愛おしさを感じたのは福田尚代の文庫本を使ったインスタレーション、つい先日twitterにて「
まんが農業」というインスタレーションを紹介したところ、漫画家さんたちが「なんかいやな気持ちになる」と大ブーイングだったのだけど、福田尚代の作品群はそれどころじゃない、もっとぎったんぎったんに文庫本を切り刻み、彫り、折り曲げ、ぶっ刺しているのだが、なんだろう、愛を感じてちょっと泣きそうになった。
つまりはコンセプトの問題じゃない、人に何かを感じさせる力、これが才能という奴なんだろう。圧巻。
展示室に飾られた絵画作品を封じ込めた透明のフレームに、それを眺める人がぼんやりと映り込む。
途端、作品が持つ物語はぐいと内側に飲み込まれ、作品の上に被さった透明の板に映る人の姿こそが、その作品の物語として浮かび上がる。
ここにある絵。ここにいる私。今。今日。このとき。
もう一つ印象深かったのは、恵比寿映像祭を元とする大久保賢一氏のキュレーションですっかり作風を記憶してしまった石田尚志の映像作品、おお、やっとるやっとると思いながら眺めていたのだけど、三つのスクリーンが並んだ展示室でどきっとした、両側のスクリーンに映し出される水面、線描などに挟まれた真ん中のスクリーンには、また別の映像を映しているスクリーンとそれを映写する映写機が映し込まれていて、それこそが、絵を視ながら感じたことそのまんまを反対側から象っている。
ここにある何か。創る私。映し出す私。見せる私。いつか。そのとき。あのとき。
今朝はたまたま物語について考えていたのだ。
いつ誰が何をしたと語ることが物語じゃないだろうと。
それを語る誰かの、眼差しや、そこに映る何かや、ビールの空き缶や、窓の外の温い風や、街灯の光が染みたアスファルトの色や、その言葉を受け取る誰かの、ぎりぎり締め付けられる胸の痛みや、顰めた息づかいや、返す言葉や、それを選び出す間の沈黙や、指先や、なんや。
それが物語だろうと思う。
それらは、それぞれそこにしか存在し得ない。私がいれば私だけのもので、誰かと共有することはできない。誰かのそれも、同じときに同じ場所にいて同じ体験をしたからといって共有できるものではない。
だからこそ、それを語る言葉や、映像や、音楽を、欲する。
それらは皆、誰かの物語から切り取られた断片だ。
私が小説を書く、そのことは物語であるけれど、それは誰にも読み取ることができない物語で、ただ、その小説を読むことで私の物語の断片に触れることができるというだけなのだ。
ならば、その媒体は、言葉でも映像でも音楽でもいい。語るものが本当でもウソでもいい。
「物語る肉体」と言ったのは、二十七年前の今日死んだ人だったかしら、そういう存在でありさえすれば、物語はそこに生まれる。
だから、言葉を飲み込むなよ。画を選ぶなよ。音楽をこそこそ聴くなよ、と。
けちけちしたってしょうがない。
そのまんまにいれば、ぎくしゃく生きていれば、それだけで物語が芽吹く。
語らない人には「語らない物語」が、描かない人には「描かない物語」が、演じない人には「演じない物語」がある。「生きていく私」が物語であるなら「生きていない私」だって物語になり得る。
押し当てられるそれだとしても、ざらっと触れたそこに何かが蠢けば、そこには物語がある。
そもそも物語ってなんなんだ。
おはなし、あらすじ、すじがき、すじみち、出来事、起承転結、時間の流れ、云々。
一冊の小説の、中に書かれていることは、物語なんかじゃない。
一本の映画の、中で描かれることは、物語と思えない。
物語はいつも創られたものの外側に、現象として作り出されるもんなんじゃないのか。
出来事は形象もしくは具象に過ぎず、それを受け止める感受性は脳細胞の活動に過ぎず、表現はそうしたことの記録に過ぎない。
それでも人は何かを語ろうと、言葉や映像や音楽を紡ぐ。
きっと、本当のところは、小説や映画や楽曲を創りたいわけじゃなかろう。
創ることでもぞもぞと蠢かずにはいられないこころや、創りだして誰かに差し出すときの、微かに覗けるこころの揺れを捉えたいんじゃないのか。
人生は歩き回る影法師、消えろ消えろ!
なんてことをもやもや考えての六本木。
考えるより感じた方が早い。
『
アーティスト・ファイル2010~現代の作家たち』の展示は明日が最終日。
- 2010/05/04(火) 19:09:23|
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