昔話をしたいわけじゃないのだけど、書く。
創造と経済についての、超長文。
18で劇団を旗上げするとき、制作から予算組を見せられて、芝居をやるのにお金がいるなんて!と驚いた。
私は、それくらい、子どもで、世間知らずで、世の中の仕組みも経済のことも、何も知らなかった。
それより前に8ミリ映画を撮ったりしていたのだけど、そのときは、フィルムを買うお金がいると知ってなるほどと納得し、母の恋人にお金を作るにはどうしたらいいのかと相談したら14万円をぽんとくれて、「プロデューサーとして俺の名前を入れろ」と言われて、あっさり解決した。
だから、フィルムがいらない芝居で、何にお金がかかるのか、さっぱりわからなかった。
劇場費が高いと言われたので、「お金がないので安くしてください」と交渉して、今思えば乱暴なくらい安く借り、ついでに稽古場までタダで使わせてくれることになり、スタッフには監修をしていた先生のとこの生徒さんたちが強制的に集められた。役者は知り合いだったし、それまで舞台をやってギャラなんかもらったことがなかったから、当然ノーギャラのものと思い込んでいた。
が、制作のお兄さんがあれこれ教えてくれ、私は「そんなお金出せないよ」と悲鳴をあげ、「普通はみんなでチケットノルマをさばいてお金を作るんだ」と言われて、「ノルマ」という恐ろしいシステムがあることを知った。
1500円のチケットを一人80枚売ればいいとかなんとか、だったと思う。
これも今ならあり得ないと笑い飛ばせるが当時は鵜呑みで、同窓会の名簿を片手にあちこちに電話をかけまくり、街頭で見知らぬ人にチラシを配り、結局、一人で100枚のチケットを売った。
まだチケットぴあなんてなかったから全部手売りだ。
売りながら考えた。
私はお金が欲しいわけじゃないのに、と。
中学の同級生は、「そういうの、大変なんだろ。十枚買うよ」と言って、チケット10枚を買ってくれたけれど、十回観に来るわけじゃないよなあと思ったのだ。
チケットが100枚売れたって、100人のお客さんが来るわけじゃない。
あちこちの雑誌に電話をかけて、読者プレゼントで招待券を出すから告知の記事を載せてくれ、と頼んだ。
まったくのド素人がやる芝居なのに、編集部の人は快く記事を作ってくれ、漫画の週刊誌やサブカル系の雑誌や大人の週刊誌や男性向けのグラビア雑誌に「読者プレゼント、十組二十名」という記事が掲載された。
応募者はたくさんいた。全員に当選通知とペアチケットとチラシを送付した。
もちろん、他の役者たちは80枚のノルマなんてどうにもならなかったと思う。
旗上げ公演は7ステージをほぼ満席にして、大赤字を出して終わった。
制作は、役者からノルマ分を回収しようとしていたが、昼飯代もなくて袋詰めのパンの耳をもらってきて食いつないでいるような彼らに、そんな大金を背負わせられるはずがない。
ノルマは回収しないよう、座長命令を出した。
今度は制作が「じゃあどうするんですか」と悲鳴を上げた。
どうすればいいのか、私にはさっぱりわからなかったし、払わなきゃいけない、とも余り思っていなくて、
「そんなこと知らないよーう」などとふざけたことを言ってしらばっくれていた。
そして、その後、その赤字がどうなったのか、本当に知らない。
風の噂では、制作のお兄さんが貯金を叩いて支払ったなどとも聞いたが、怖くて確かめていない。
私は、100枚のチケットが売れるより、100人のお客さんが来てくれた方が嬉しい。
芝居なんてものは、100円でも200円でもお客さんからお金をもらう出し物で、自分が芝居をやるためにお金を払うなんて、絶対に間違っていると思っていた。
二回目以降の公演では、ノルマを廃止した。
チケットを売らなければ劇場費が払えないのだから、正しくは、「ノルマ」というのを廃止した、ってことなのだけど。
スポンサーを募って、歩き回った。一口五千円で、私たちの活動を援助してください、という厚かましい文書を作って、スタジオアルタで「笑っていいとも!」をやっていた横澤プロデューサーのところにまで行った。
一口五千円の援助か、「私は彼らを応援しています」という署名をしてくれとお願いして回り、わずかな援助金とたくさんの署名を集めた。
署名は、公演の企画書に添えた。
その頃、チケットぴあが大々的にシステムを稼働し始めていて、いくつかの小劇団の公演チケットを全部買えば割引価格、みたいな企画に参加して、街頭ステージでの宣伝イベントなどに駆り出された。
観客は飛躍的に増えたが、公演はやはり赤字だった。
役者を稽古場に拘束するなら弁当は出せ、仕込みとゲネプロの日にはスタッフ全員の弁当を出せ、などの座長命令を出していたからかもしれない。
私は相変わらずお金の扱いが苦手で、制作のお兄さんはとうにいなくなっていて、他の誰かがお金のことをやってくれていた。
赤字になった分を支払ったことも、支払わせたこともなかったから、赤字の分はどこかのスタッフさんが泣いてくれていたんだと思う。
私たちの劇団は、本当に厚かましく、世間知らずな、どうしようもない素人だった。
五年間の活動で十本くらいの公演を打ったのかな。
そのどれもが、同じようなやり方だった。
その当時には珍しくノルマのない劇団だったが、「チケットが売れていないので、皆さん頑張って宣伝してくださーい」と、その後制作を引き受けてくれた幼なじみがいつも稽古場で声を張り上げていた。
プロの音響さんや照明さんを雇うことになっても、ずっと泣いてもらっていた。
「それでもいいよ。やるよ」と言ってくれるスタッフだけが劇場に入ってくれた。
相変わらず客席は満員で、採算は赤字だった。
それは、きっととても正しいことだったんだと思う。
その頃の私たちに必要だったのは、お金より観客より「それでもいいよ。やるよ」と言ってくれるスタッフや役者だったのだから。
そういう人たちが集まってくれたから、私たちは楽しかったし、お客さんが気に入ってくれる芝居も何本かあった。
貧乏臭い素舞台の黒幕芝居しか打てなかったけれど、そうしかできないとわかっているから、ちっとも不自由には思わなかったし、お金のかかる大仕掛けをしたいとも思わなかった。
当時、スモークを使う芝居が流行っていて、それだけはどうしてもやりたくて、劇団員みんなで少しずつお金を貯めて、中古のスモークマシンを買った。劇団の備品はそれだけだ。
舞台監督がよそで仕事をして、廃棄することになったパンチカーペットや雑グロを貰ってきたりしていたから、それほど困らなかった。モッタイナイ精神で舞台をバラす舞台監督はよほど仕事が丁寧だっただろう。
当然ながら、五年間の劇団の活動は、まったく商売にならなかった。
けれども、毎回足を運んでくれるお客さんや、「いいよ。やるよ」のスタッフや、食パンの耳生活をしながら稽古場に通う役者たちや、満場の拍手をもらえる芝居があった。
足りないものがあったとは、思わない。
だけど、ずっとそれを続けようとも思わなかった。
今度はお金になることをしようと欲張って、劇団を解散した。
それまでの間に、プロデュース公演に参加したり、ドラマやCFに出たり、雑誌のインタビューを受けたり、広告のモデルになったりするとお金がもらえて、稽古場と飲み屋の往復をするだけなら十分に暮らしていけると知っていたから、そこに不自由はない。
劇団をやっていた頃に、すっかり有名になっていたお陰で、一時期は贅沢な生活をしていた。
世の中は小劇場ブームになっていて、安く使えて一生懸命な小劇場の役者は、皆とても重宝がられていた。
私はエリカ様よりもっと生意気だったから、すぐに干されたけれど。
それでもまだ私は、あちこちで知り合う小劇場の役者たちが皆アルバイトをしていると知って、「バイトしててよく稽古する時間があるもんだなあ」と感心するほど、無知だった。
アルバイトをしようと思ったことも、する必要があったことも、それだけ自由になる時間を持ったこともない。
学校も途中で辞めてしまっていたし、芝居をやることの他は何も考えておらず、芝居以外で自分にできることがあるとも思っていなかった。
それから、最初の結婚をした。
初代の旦那さんも小劇場の役者で、アルバイトをしながら一年に三本も四本も芝居をやって、いつもへとへとになっていた。
「あなたは芝居ができるのに、どうして他の仕事をするのか」と質問したら、「芝居じゃ食べられない」と言う。
言われてみれば確かにそうだった。
その頃の私は一年に十四本も芝居に出ていたけれど、ギャラが出る公演など一本か二本しかなく、その貴重なギャラ
も、次の芝居の稽古場に通う交通費と毎晩の飲み代になるかならないかの金額だ。
そうか、芝居じゃ食べられないのか、と、そのときにわかったはずなのに、お金を動かしてみたくて、それまで取り組んだことのない大きな企画を立てた。
経験浅く不勉強のままにやったその公演は色々なしくじりがあって、満席にもならず、黒字にもならず終わり、正真正銘の「払えないお金」がわんさか残った。
これまでずっと泣いてもらってきた人たちを今度こそ泣かせずに済むと思っていたのに、そうじゃなかった。
私は、赤字になったとき、誰がお金を払わなければいけないのかも知らずに、片っ端から力を貸して欲しい人を集めていた。
制作の人から、「赤字だけど、金払えるの」と訊かれて、「私が払うの?」と驚いた。
そして、劇団時代からこつこつ貯め込んできたその人たちの信頼という財産を、いっぺんになくしてしまった。
なくしたものは今も取り戻せていない。
けれど、お金さえ扱わなければ信頼してくれる人たちにも、また出会えた。
大きなお金を動かしてたくさんの人を集める企画の面白さもちょっとは見知ったけれど、それはきっと私のサイズではないんだと思う。
人がいて、お金がない、というのが、私のサイズだと、実感する。
諦めるとか自信を失うとかじゃなく、それが私には一番自由だし、一番満たされる。
芝居をやろうと思ったとき、世の中に訴えたいことや、誰かに伝えたいことがあるわけじゃなかった。
商売をするつもりも、持ち出しを取り返すつもりもなく、ただ、私が観たいものを、やりたいと言ってくれる人たちと創るだけだった。
幸運なことに、今の私はお金のことを考えずに芝居と関われる。
しかも、台本を書いて稽古場に通った分のギャラも貰えている。
それはすごいことだと思う。
けれど、やっぱり私の中では、何も変わっていない気がする。
多分、最初から、芝居なんて河原乞食じゃないかと思っているんだろう。
自分がやりたいからといって自分がお金を出すことは、間違っているような気がして、できない。
お金をもらうんだと思わなければできないことがたくさんあるし、お金をもらうことでしか成り立たないのが、作り手と観客という関係なんだと思う。
お代は観てのお帰り、カンパ式、というのをやったことがある。
そのときは自分が舞台に立っていた。
自分が演出した本公演の後に、これからゲリラ公演をやりますのでお急ぎの方はどうぞお帰り下さいといって、どきどきしながら客出しをした。
本公演を観に来た満席のお客さんの、一人か二人は帰って行ったけれど、殆どのお客さんが席に座ったままだった。
出し物は、私と、手塚とおるという役者との、粗筋と台詞のない二人芝居で、三十分くらいだったと思う。
私は恥ずかしいのと緊張がひどいのとで、舞台上でスブロッカを丸ごと一本飲み干してからでないと、何も始められなかった。お客さんは、ぐびぐびとズブロッカのラッパ飲みをしている私を観て、くすくす笑っていた。
出し物が終わると、劇場の出入り口で逆さにした帽子を持って、お客さんを見送った。
帽子はすぐにお札でいっぱいになって、差し入れの入っていた紙袋に持ち替えた。
一度素通りして、ATMでお金を下ろして戻ってきてカンパしてくれた人も、2日目の終演時間にわざわざまた来て昨日の分ですとカンパしていってくれた人もいた。
劇場費さえかからなければ、これが一番フェアなやり方だと思う。
やりたいことをやってるくせにけちけち経費を回収しようなんて、みすぼらしいじゃないか。
やりたいことのために身銭を切るなんてみっともないじゃないか。
みっともないことを必死でやるのは、かっこいいんだけれどもね。
私は、自分の力でお金を生み出すことができない。結局は人にたかっているだけだ。
かっこつけたって、経済が成立しない創造の場では、どっかで誰かが身銭を切って泣いてくれているに違いない。
そうやって泣いてくれる人がいなくなれば、何もできない。
できなくなるのは嫌だから、「それでもいいよ。やるよ」と言ってもらうために、毎度毎度、必死になる。
作り手にとって一番怖いのは、自分がやりたかったこと、創りたかったもの、観たかったものに、届かずに終わることだ。
「いいよ、やるよ」の人たちに「お前、ほんとにこれがやりたかったのか」と言われたら、おしまいだ。
だって、誰が何を観たいか、どんなものを面白がるかなんて、他の誰にもわからないんだから、基準ははっきりしている。
自分が観たいもの、面白いと思うものを見つけた人が作り手に回る。
それさえあれば、どうしようもなく生意気でも、ひどく下手でも、「いいよ、やるよ」「やろうよ」「観に行くよ」と言ってくれる人がいる。
まったく、他人が何を面白がるかなんて、わかったもんじゃない。
「自分が何を観たいのか、やりたいのかをはっきりわかってる奴」を求める人には、私が必要に違いない。
そして、私にはそれを信じて「いいよ、やるよ」「やろうよ」「観に行くよ」と言ってくれる人が必要だ。
やりたいことのために身銭を切ることを覚悟と言うなら、
やりたいことのために身銭を切らないことも覚悟なんじゃないのか。
「やりたいこと」の中身が違うってだけの話だ。
働いてお金を作ってものを作って満足できずにまた働いてお金を作ってものを作ってというやり方は、そういうことをし続けていたいだけのマスターベーションに見えることがあるけれど、それがその人の明確なやりたいことである以上は、「やろうよ」と言う人に必ず出会うことになっている。
創造も、経済も、一人きりでは形にならない。
- 2010/05/18(火) 05:41:42|
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