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仕事部屋

私のゆくえ。

人に何かを教えることはとても難しい。
教えられるものなど、実は一つもないのだろうと思う。
結局、私にできることは、そこに居続けること、目の前にいる人と関わり続けることだけだと、いつも思わせられる。

学ぶ気持ちのある人は、同じようにそこに居続けて、関わり合っていく。
その結びつきに、また人が集まる。
学ぶものがないと感じる人は、気ままに立ち去っていく。
私はそこに居続けて、それを眺めている。

払いのけたいほどうっとうしいものも、時にはある。
私一人が思うそれには、耐える。
だけど、そういう何かのいいようのない根深さ、図太さに、負けることもある。
心地よいものはいつでもかすかで、不快を感じさせるものほどたやすくまとわりつく。
空気や空間やこころにじくじくと充満していく。

そういう毒素の主成分は、エゴ。
エゴは、他者と自己との関わり合いの中に生まれる化学物質だ。

演劇には「ダメ出し」というシステムがある。
見た人だけが「あれがだめ、これがだめ」と一方的に言う、あまり平和的でないシステムだけど、ダメ出しが「どう見えるか」を基準にしている以上、見た人の言うことがすべて正解になる。
見られた人がどんなつもりでいようが、まったく関係がない。
言い返す権利も、説明する権利もない。
まったく不平等なシステムだ。

けれど、実際に、我々の暮らしはそうやって成り立っているではないか。
私の思う私など、どこにも存在していない。
すべては関わる人との間にあって、私という存在は常に、関わる誰かの思う私、という形でしか存在していない。

お芝居のシステムは、そんなに難しいことじゃない。
他者と自己の関わり合いをうっすら把握していく幼稚園児くらいの理解力があれば、飲み込める。

「あなたはAです」と言われたとき、Aと言われた人にそれを否定する力はない。
「いいえ、違います。私はBです」と言い張って、すっかりBのつもりであっても、他者が「Bと言い張っているAである」と認識していたら、そこをひっくり返すことはできない。
Aと見られることを否定するには、「他者にとってAにみえる自分の中の何か」を見つけ出して排除し、「他者にとってBにみえる自分の中の何か」を取り入れるしか手段がない。

お芝居と、日常で他人と関わる方法に、違いはない。
だから、演劇が自己啓発的な部分を持ってしまうことは、避けられない。
違うのは、目的だ。

よりよい私になるために手段を学ぶのではなく、よりよい作品を作るために私を犠牲にする。
手段は同じなのに、目的が違うだけで、すべきことがまったく違う。
故に、誰にでも簡単にお芝居ができるわけではない、ということなのだろう。

舞台の上で「美しい人と思われたい」と願う人は、その人が感じるところの醜いことをやれと言われると、尻込みする。つまり、「できない」。
誰だって、やりたくないことをやるのは難しい。

それは、自己の基準を持ち込むからできないってだけのことで、それを解消するために、「ダメ出し」が存在する。
美しい人と思われたいのに、作品のためにやりたくもないことを顔を歪めて唾を飛ばして汗まみれになって必死になっているあなたは、誰よりも美しい。
そう言ってくれる「ダメ出し」があれば、その人は自分の基準を棄てることができる。
「いいえ、そうではありません。たとえ作品のためであっても、顔を歪めることは美しくないのです。何故なら私がそう思うからです」と言い張る人は、芝居にはいらない。

でもきっと、こういう人って、世の中にもいらない。
社会的にという意味ではなく、我々の日常の関わり合いの中、という意味の、すごく狭い定義での世の中。

他者が見る私を認識することでしか他者との関わり合いは持てないのだ。
自我とは、私が思う私ではなく、他者に映された私でしかない、という本質に気づけない人は、生きることが苦しいだろうと思う。

だって、私が思う私をそのままに映してくれる人など、この世のどこにも存在しない。
鏡に映る自分だって、反転しているじゃないか。
写真や画像に残された自分は、粒子が作る幻だ。

理屈にすれば当たり前のことを、日常の感覚で見失ってしまう。
他者に認められたい、と思う気持ちが、他者からの否定を飲み込めなくする歪み。

何故、それほど他者に認められたいのか。
自己肯定感が不足しているんだろうと思う。
自分で自分を肯定できないから、他者に認められることで、肯定したい。
ならば、「ダメ出し」が最も有益なはずなのに、そういう人ほど、ダメ出しが飲み込めない。

美しくありたいと願う人は、素直な志として自分の努力を厭わない。
だけど、美しい人と思われたいと願う人は、それができない。
そういう仕組みなんだと思う。

歪みは、願いそのものにある。
他者が何をどう思うかは、他者の自由だ。
それを操ることはできない。
いくら「Bに見えるように」振る舞ってもだ。

結局のところ、「私はBである」と自己肯定するのが限界なのだ。
そして、その自己肯定が成功していれば、他者に「この人はBである」と認めてもらう必要はない。
「私はBである」と自己肯定していれば、他者から「Aである」「Cである」と認識されても、「私はBである」が揺らがないはずだ。

自己肯定なしに他者からの定義を代用して自我を形成しようとする人は、「誰も本当の私をわかってくれない」と苦しむ。
自分にとって望ましい他者の定義だけ、つまりは自身の定義だけで形成されるものが、エゴの正体だ。

真実などどこにもない。嘘すらどこにもない。
あるのは、事実を挟んだ、それぞれの解釈だけ。

理屈でそうとわかっている人が、自分自身のことになるとトチ狂う。
自分を他者に認めさせようと、やっきになる。
その部分は、確かに面白い可笑しい。
それが人間て動物だなあと思う。

だけど、未来がない。
つながる間口がない。
何かを作る隙間がない。
何よりつまらない。

他人にどう思われようが関係ない、という言い方をすると、悪い意味に誤解されることがある。
他人の意見は聞かずに好き勝手やります、というような悪い意味に受け取る人は、そういうやり方しか知らない人なんだろう。

そもそも「思われる」という受け身が歪んでいる。
他人が「思う」ことはそこで完結していて、こちらには関わりようがないんだから、本来は「思われる」という形での「思いを受ける」ことは成立しない。
「思う」「思う」「思う」「思う」の、それぞれがあるだけ。
だからこそ、そこに「ありがとう」「ごめんなさい」的な、それぞれの「思う」ものとは個別の「関わり合い」が必要になる。

お芝居では「台詞」や「段取り」が、関わり合いを作る。
守らなければならないもの。
単に、決まり事として捉えても決して間違いではないけれど、それは本来、関わり合うために必要な礼儀に近いんじゃないかと思う。

お芝居をするとき、台詞が自由に喋れない、段取りがぎこちないと感じている人は、一度、自我のところから掘り返していくと、案外あっさり解消するかもしれない。

日常で他者との関わり合いがうまく結べないという人は、「ありがとう」や「ごめんなさい」を台詞や段取りとして使ってみればいい。

真心? 本心? 

そんなもんは豚のケツだ。
どうせ誰もあなたのことなど、どうとも思っていない。
それが大事だと思うなら、胸のうちの宝箱にしまって鍵をかけておけばいい。
こころなんて、脳細胞の活動を自分に都合よく形成してるだけの妄想じゃないか。


…なんてことを、ぐだぐだ喋る飲み会が、もれなくついてます。
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  1. 2010/06/10(木) 15:08:45|
  2. 雑感
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  4. | comment:1
<<常さーん。

comment

「見た人の言うことがすべて正解になる」
というのは面白いことですね。
ラジオや雑誌などのインタビューで見る、生き残っている役者さんたちが、たいへん謙虚な人たちであることの理由が、これで一つわかる気がします。
また十分な技能の訓練や強い好奇心のある人なら、誤解されることも、自分に対する新しい解釈の発見になって楽しいのだったりして。
前川さんが、自分にできることは「そこに居続けることだけ」というのは、賭場に出続けるということだと思います。
賭けて、その結果を受け止めるということを、続けて止めないということだと思います。
  1. 2010/06/17(木) 13:13:16 |
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