7月WSはじっくりメニューを考えているので、申込先着10名で定員とさせて戴くことにしました。
現在、7名の申込がありますので、あと2名の申込がありましたら〆切とさせて戴きます。
8月~10月のWSはお休みで、再開は11月の予定です。
朝日カルチャーセンター主催の短期講座「はじめての演劇ワークショップ」全3回は、第1回目を終えましたが中途からの参加も可能です。詳細は
朝日カルチャーセンター新宿校まで。
また、10月の龍昇企画公演「モグラ町1丁目7番地」の公演中、公演の舞台セットを利用した有料の単発ワークショップも企画しています。出演者の強制参加も有り。こちらも申込先着順の定員制で、お申し込みは公演期間中の劇場受付となる予定です。詳細が決まり次第お知らせ致します。
日曜夜に高円寺ジロキチにて面白スゴいバンド、大B
oogieChaffの2マンライブ、どんなに体調や心調が悪いときでもBoogieChaffの演奏が始まると3秒でご機嫌になるのだが、この日の1曲目が「ひょっこりひょうたん島」のテキーラ・アレンジ、もちろん3秒で笑顔になったけどサビで思わず落涙、お別れできなかった井上先生を泣き笑いで一人追悼。
何かを作るってことはその実たいそうなことじゃなくて、結局のところ誰もが何かを作って生きているってことだと思うけど、誰かの人生に何かを残すってことが本当の意味での何かを作るってことだなあと思うと、それはやはり出逢いの奇跡と才能の偉業に負うところが大きいってことだよなあ、としみじみ。
BoogieChaffのスゴさは、そういうことを気負わずに純粋な結果として成し遂げているってことなんだけど、音楽的なセンスや図抜けた技術に頼ることなく、人前に立つこと=みせるべきものとみせずにおくもの、のバランス感覚がやっぱり特別にしっくりくる感じ、歌詞一つとっても、日常感覚のまんま飾らずに歌い上げて笑えたり泣けたりってところ、音楽による「素の表現方法」(素だからといって何もしないわけではないという私的に正しい解釈としてのそれ)が成立しているバンドの抜きん出た一つだと思っている。
マザーという曲のことは前にも書いたと思ったけど、三人のメンバーがワンコーラスずつ歌い継いでいく構成で、
出だしはジョー山中なんだけど「僕のママは 敬う子と書いて敬子と申します」とモミーパートがくるから笑っていいのかしんみり聴き入るべきか惑わされる、続いてのモリヤンパートで「僕のママも 敬う子と書いて奇遇にも敬子です」とくるから笑うしかない、ルイパートでは敬子ではなく「栄える子と書く 栄子です」とあって、サビには「敬子、敬子、栄子~」の連呼、二番の歌詞はしょうもないママの特技自慢でまた「敬子、敬子、栄子」…笑ううち泣けてくる名曲、いい年してバンドなんぞやってるしょうもない息子たちが母親の名前を歌い上げる姿には「やり続ける凄み」があって若いバンドには真似できないセンチメンタルになっている、私はこの曲を聴くと、ああ息子が欲しかった、と思う。
敢えて笑いを取る姿勢に踏み込むとキワモノになってしまうぎりぎりのラインだなあとは思うけれど、このギリギリ線上ってところは意思がなければ乗っかれないものじゃないかしらん。
好きなバンドや仲良くしている音楽系の友人はたくさん、でも、心からの尊敬と、純粋に楽しめる信頼が寄せられるのは、Boogieと寅蔵のJPBだけ、どちらも息が長くリハをしない、圧倒的な技術と面々の個性の強さ、ってあたり、私が芝居でやりたいことと同一線上にあるような感じがする。
お芝居も音楽も、技術の巧い下手が普通の人には判りづらい、「わかんねーよ」と思う人にこそ見てもらいたいのがBoogieChaffやJPBや「モグラ町」で、そういうことを自分もやってみたい、と思う人はうちのWSに来て「そうそうできるもんじゃねー」ってことを思い知ればいい。
面白いものに出逢ったときの心地よい敗北感、これが楽しめない人には、何かを作ることなど楽しめやしない。
意味があること、カッコいいこと、もっともらしいこと、にしか「スゴさ」を感じられない人がたくさんいて、私にはそういう人たちが良しとする「何か」を良しと思えないし、そういう人たちは私が「良し」と思うものを「良し」とは思えないのだろうけれど、好き嫌いを超越した敗北感を素直に感じ取れるようにならないと、何かを作ることなど始まらないのだと、こればっかりは心から思う。
興奮のままにぐちゃぐちゃになっている姿のカッコ良さは、やっぱり音楽にしかやれないのかなあ。
悔しいなあ。
- 2010/07/06(火) 01:03:50|
- 雑感
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