仕事部屋

学びの学習。

WSや小説教室での教える側、原稿のやり取りを挟んでの教わる側、両方をやっていると感じるのが、「教え方」ではなく「教わり方」だなあってことだ。
本当は、教えるのが巧いっていう基準は存在しないんじゃないか、あるのは「教わる側の巧い下手」という基準なんじゃないかと思う。

絶対にこう、という目安のないことをやっている私の場合は特に、そう感じる。
そこにいる一人一人によって、必要な技術や、学ぶべきことは違うから、教えるときには「~のような場合」を省略して「~すると良い」「~してはいけない」と言うのだけど、これを、必ずや願望を達成する秘術のように受け止められても責任は負えない。

言われたことを「この場合はこうである」と一点集中に飲み込んで、「そうなると、こっちのこれはどうすればいいのか」などと勝手な応用や方程式作りをしない人は、教わるのが巧い。
すべての問題を解決する秘術、これさえあればOKなんてものはない。
「この場合はこうである」を数重ねるしかない。

それでも、少しでも進歩したい、学習したいと思う気持ちが、一を見て十を知ろうとばかりに、勝手な解釈を生み出してしまう。
他人へのアドバイスに聞き耳を立てて「ふむ、なるほど」と取り入れることは素晴らしい学習姿勢なのだが、それを自分に当てはめることにはまったく意味がないし、間違った尺度で計ることになる。
秘術を求めているから、「~の場合に」の部分を取り落として、「それだ!」と独り合点してしまう。
解説を理解する努力をサボって「~すればよい」という「良い」と、「~してはいけない」という「悪い」だけを抽出しようとする人は、教わるのが下手な人だと思う。

演劇やら小説やらの絶対的な方法論のない「創作」において重要なのは、「良い」でも「悪い」でもない。
「~の場合」を考えていく過程、つまり「良くするにはどうすべきか」に取り組むことこそが「創作」なのに、「良い」「悪い」の目安に沿って考える労力を減らそうとしているのだから、学ぶものがあるはずがない。
もちろん、そういう人は何ヶ月経っても進歩が見られない。

きっと学校がそうやって教えてしまったんだろう。
「~は良い」「~は悪い」で物事を教えることは教育じゃなかろうに。
それを考える力をつけさせることが教え育てることだと思う。
「先生」と呼ばれるのは、先に生まれた人、その道の先を生きる人だ。
先を生きる人が、徒然と生きる人たちに、自分が知る限りの「良い」「悪い」をずらり並べて、「さあ、どうする?」と選択させる。
「悪い」を選んだ生徒にも「~の場合」を説明し、再び選択させる。教えることは、その繰り返しだと思う。

もちろん大変な時間と労力を費やす。「良い」と「悪い」を抽出して教える人は、それを惜しんでいるんだろう。
決められた時間内で必要な進捗を目指し、様々な条件による定員を抱えていては、ままならないこともある。
職業としてのそれは確かに技術があって、技術には「巧い」「下手」がある。

けれど、教える側に職務と責任はあっても、教わる側の職務と責任はない。
つまり、教わる側にはそもそもの選択肢がある。
教えるのが下手な先生だから、というとき、その正しい意味は「教わるのが下手だから」ということなのだ。

伸びる奴は伸びる、という言い方がある通り、教わるのが巧い人は、どんなに職業的技術のない先生の下でも、自分に必要なことをちゃんと吸収して、力を伸ばす。
先生の言うことに「良い」と「悪い」を求めず、常に自分で「~の場合」を考えていけばいいだけのことであって、先生の言うことなど自分で考えるためのネタに過ぎないと思って取り組めば職業的な技術の巧い下手に影響されずに済む。
自分で考える人には疑問も生じるだろうし、質問が出る。質問には「つまらない質問」などない。
質問自体が「自分で考えたこと」に他ならないのだから。
となれば、本来は解答すらいらない。必要なのは、無理矢理にでも考えさせてくれる場所や時間だろうと思う。

「それはつまりこういうことですか」と概略を取ろうとする人は、わかっているようであって、その実、教わり方が下手で、まるでわかっていない人だったりする。
「それはつまり」にする段階で、そこに至るまでのことを省略しようとしている。
大体、先生にしたって「それはつまり」で括れる話は最初から「それはつまり」で話す。

「Aの場合にBである」と一例を話しても、「Aの場合にBであるなら、CのときにはDってことだな」と、先の理解したつもりで勝手な応用や解釈を作る人ほど、またしくじる。
けれど、自分では先生の言ったことを踏まえているつもりだから、しくじっていることに気づかない。
たちの悪いことに、それを指摘すると傷ついたりする。
自分の勝手な解釈なのに「先生の言った通りだから正しいはず」と思っているから、何にしくじっているのかわからない。自分でわからないことを頭ごなしに「それは間違い」と否定されて傷つくのだろう。

他人から間違いを正されることを否定と感じてしまう人は性質的な問題があるのだろうけれど、結局は自己肯定感
の薄さが要因なのだ。
他人から言われた、もしくは自分が勝手に作り上げた「良い」「悪い」だけを基準にして考えることをしないから、結果の価値が低くなってしまう。それでは、いくら経験を重ねてもなかなか自信がつかないし、自分の頭で考えたことの結果に確信が持てない。
確信もないままに「これは多分こうだろう」「こんなもんだろう」「これまではこれで問題なかった」という程度の判断をすることは、結局いくら重ねていっても確信に結びつかない。

もう一つ、教わるのが下手な人の特徴に「自分で判断する」というのがある。
判断するってことは考えてるってことだろうから、一概にダメの要因とも言えないけれど、考えるべきタイミングやポイントがずれているんだろう。
つまり、「指示に沿わない」。

「AをBに直しなさい」と指示されていても、「Aの方がいいと思う」という理由で直す手間を省いてしまう。
そのような指示がある場合には、そうした場合の結果を挟んで判断すべきところを省いてしまうのだから、Bが導く結果を知ることのないままに終わる。
指示する側の意図は、AとBのどちらが「良い」か「悪い」かを選ぶことではなく、Aに対してBを示すことにあるのだが、ここでもまた自分勝手に「良い」と「悪い」で自己流の判断をしてしまう。
そうなると何を示しても学習してはもらえないのだから、正直お手上げだ。


先生仕事をしながら、先に生まれた人から教わって、御陰さまのありがとうと思う。
つれづれに生きて、先を生きる人に学ぶことほど、自分に悦びをもたらすものはない。
私は相変わらず人から何かを教わるのが下手だけど、それでもわかる悦びなのだから、教わるのが上手な人はどれほどそれを楽しんでいるんだろう。

小説教室に通ってくれている最高齢の生徒さんのモットーが「技術」とあって感心してしまった。
その人は、私がどんなコメントをつけても何も疑問を差し挟まずにきっちり直して、誰より早く一番長い作品を書き上げ、「書くだけ書いて、自分でも読めなかったものが、読めるようになった」と言ってくれた。

なんてことはない、できる子わかる子のふりをせず、素直に「学ぶこと」を楽しむ人が、一番に実る。
そういや、同級生でも先生に恋をした子は主席で卒業したんだっけ。









  1. 2010/07/15(木) 16:58:37|
  2. 雑感
  3. | trackback:0
  4. | comment:2
<<7.17

comment

本当に

すごく良く分かる。
この方の書くお芝居はきっと面白いんだろうなぁと思った。
今もがいていらっしゃるようですが、
10月のお芝居、モグラさん、
頑張ってください!
  1. 2010/08/08(日) 07:40:17 |
  2. URL |
  3. ハイジ #-
  4. [ edit]

ありがとうございます。
ひらべったい言い方ですが、教えること=教わること、だと常々感じます。
方法論のない小説や演劇では「教えること」は少なく、姿勢あるのみなので、尚更です。
秋の「モグラ町1丁目7番地」是非お足運びください!
  1. 2010/08/09(月) 14:52:51 |
  2. URL |
  3. まえかわ  #-
  4. [ edit]

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