仕事部屋

告白はしません。

相変わらずうかうかぼやぼや…、新しい恋人ができた女友達から届いた惚気メールが嬉しくてにやにやするとか、そんなんばっかりだなあ、どうしてこうも恋愛が下手なのか、片想いキャリアばかりが積まれて最近はもうただの意気地なし、もとからエンジンかかるの遅くて付き合って3ヶ月くらいしないと自分の気持ちが定まらないタイプなのに出足で臆病になったんじゃ殊更気持ちが動かしづらい、デートとサシ飲み言い換えたところでどう違いがあるんだかわからないけれど、最近デートに誘って喜んでくれるのは女友達ばかりで、女友達とのデートは大概が愚痴の零し合いになるもんだから、それはそれで楽しいんだけどどこか小さな穴が繕えない感じもある、男友達とのデートの場合はしゃぎ過ぎて翌日に凹むことしばしば、やっぱりデートは好きな人としたいと思うそばから、そうかだからデートって言うと断られるのかと納得したりもする、きっと好きな人カテゴリーが幅広過ぎるんだろうけれど、なんだかこの年になって自分の恋愛感覚が危ぶまれてきた、昔のバイト先のマスターとの会食もデートだし仕事の話抜きにした編集者との会合もデートだし龍さんとの打ち合わせだって二軒目になればデートだし娘と食事に行くのもデートだし女友達の手料理御馳走になりに行くのもデートだしWSの誰かとWSの時間以外に会うのもデートだしって言う私にとってはサシ飲みなんてデートそのものなんだけど、そこに区別が必要になるってのはつまるところ認識の違いを避けて折り合いをつけておきたいという消極的な好意なわけだから、それを無視して突き進むのは折り合いがつく消極的な好意を放棄するってことのような気がして選択肢がない。

結局のところ人はいつも自分の気持ちの押し付け合いや領分争いみたいなことをし続けるしかないのかしらん、こころって面倒よねえ、自分のそれだって扱い損ねることがあるのに人のそれなんて推し量れるはずがない、思いやりという言葉で推し量ったつもりになる奴が気づかぬまま誰かを踏みにじってたりもするんだし、傷ついたり傷つけられたりすることは関わり合いだからまったく問題じゃないのだけど、判って欲しいとか判ってあげたいみたいな折り合いの付け方がどうしても巧くできない、といって開き直れやせずに「判ってあげたい」に捉われて自分を押し殺すことばかりになったりして、物わかりがよくて付き合い易い熟女にはやっぱりなれず、駄々こねて我を通す自信もなく、それらは決して恋愛感情だけのことではなくて人付き合い一般に、もっといえば自分自身との向き合い方に透徹した欠陥で、そういや自分から好きになった人と付き合ったことなんてこれまで一度もないじゃんとか、死ぬまでに一度は思ってることをそのままに口にしてみたいもんだとか、誰もがそうやって当たり前にやってきていることに対してわざわざの意識が向いてしまうことが不自由で、そのへん私ってバカだよなあ、女はバカな方が可愛いと言うけれど自分をバカと判ってるバカは可愛げがないよなあ、しかもバカじゃありませんと取り繕って陳腐な理屈を並べるなんて、それを好きな人も目にするようなこういうとこに書くなんて、手の施しようのないバカである割に何か策があるように思われがちなところが可哀想だ、私。

私の心のボスが、究極の恋愛論を出版することになっている。
バレンタインデーが発売らしいのだけど、ちゃんと間に合っているのかしら。
パイロット版を読ませてもらったけれど、本当に素晴らしい恋愛論で、皆に配って回りたいと思うほど。
この数年、その恋愛論の構想ありきでボスと対話する機会が多かったから改めて文章になったものを読むと、思考が促されるのがわかる。
そしてまた、口にして喋っていることと、頭の中でこねあげる思考と、こころの奥底で思うことはすべて違うんだなあと気づく。

私の場合はそこに演技があって更に文章を書くという技術があって、自分の中にあらかじめ与えられた本能としての前述の三つより更に二つ多くフィルターがあるもんだから、自分でも自分の何が真実なのか本質なのかがわからない、小説を書くときは思考より感情より文章がより真実に近いと思うのに、好きな人に宛てて書くメールなど書くそばからまったく真実ではなくなっていくし、と言って会話や対話であればその不安が解消できるかというと文章より更に根深く自分が何も本当のことを口にしていない、何が本当かなんてその場では選び取れないと感じるのが常で、その不安を麻痺させるためにお酒の力を頼っているという自覚もあるけれど、飲めば飲むほどにべらべらと思ってもいないことや思ってるのとは違うことを喋るばかりで真実の夜明けに辿り着かないまま朝を迎えただ体力を消耗するばかり。

だから芝居をやってきたんだと思う。
演じるときには思考しなくていい、自分の言葉を選ばなくていい、与えられた言葉と思考と性質を身体感覚で立体化するだけで束の間真実が生み出せる。
演じる私には感情があって思考があって適切な言葉がある、それは普段の私にはないものだと承知している分、圧倒的に信頼できるもので、演じていないときにも小説の人物を通してそれをやってきたから生きてこられたんだろう。
7歳から芝居を始めたことで自我を形成する前に「演じる自我」を持ったのだと精神科医に言われた、その通りのことをまた改めて思う。

日常の私はどんな役をどう演じるかわからなくておろおろするばかり。
「日常の私」を確立している役者は演じるときに振れ幅が大きく観ていて痛快なのだけど、私の場合はどう演じても自分に閉じ込められているから観ている人にもきっと息苦しかったりするんじゃないだろうか。
その「演じている私」がどれほど窮屈であっても、そのときに一番生きている実感があって呼吸が楽にできているってのが事実だからどうしようもないのだけれど、それが私にとって演じることの限界なんだろうとも思う。
「私ではない私になるために演じる」ことと、「私が私になるために演じる」ことでは、前者の方が圧倒的に間口が広いはずだから。
それでも観てくれる人がいるうちは演じることをやめられないし、やめたら私はまた自分の消失を感知して発狂するだろう。

家族や恋人の存在に縋るのも、演じていない私に役割を与えて確立させたいからなのだと判る。
別に、そのために恋をしようとするわけじゃないんだけどそれも否定しきれない、けど誰だって何かしらそうした心底があって誰かを必要としているに違いない。

ボスは、このことを心の穴だと書いていた。
誰にでもある、それぞれ違った形の穴。
恋をするのは、相手が持っている何かでその穴を塞いで欲しいからだと。
穴のない私になりたいからそぐわない相手に恋をするのだと。
だから、相手の穴が視えたら気持ちが醒める。
自分の穴の形を自分でしっかり受け止められたら、そういう恋はしなくなるだろうとも書いてあった。
穴のあいた相手を、穴のあいたまんまに受け入れることができるようになる、そのことが愛だとあった。

ふううううむ。当たり前にそうと感じていたことをそうやって文章で読むと、やはり色々と考える。
正しい。まったく正しい。正しいのだけれど。
論はやっぱり論なのだ。

感触とか、感覚とか。

関係や信頼は恋をしなくても得られる。時には恋よりうんと。

感触や感覚としての心地よさを信じるだけでも関わり合いは生まれるし、本当に必要なものは、その先に芽吹いたり芽吹かなかったりするんじゃないんだろうか。

ボスはそこんところ別腹でやっちゃってるからなあ。

感触や感覚で得たものを信じずに理屈をこねてる私は、やっぱり「わかって欲しい」と「判ってあげたい」に捉われているんだなあ。
その先には、ごくごく陳腐な「確かめたい」とか「安心したい」とか「信じたい」が待ち受けていて、そこに追い込まれるのが嫌だから踏ん張るんだけども。

もはや人生の演出助手になった小形くんには「告白しなさい」と指令されている。
「泥酔せずに」という条件付きの指令だから、難しい。

しないよーだ。

だって一生懸命に折り合いつけて今あるものを保ってくれてるのに可哀想じゃないか。
言い訳だけど。

自慢じゃないが私はほんとに好きな人にはまったく近づけないし、何も言えなくなってしまうタイプなのだよ。
そんで泥酔して醜態曝して自分だけ記憶リセットするパターン。
昔っからそうだから、多分もうずっとそうなんだろう。

あーあ。もっと堂々とした大人になってるはずだったのに。






  1. 2011/02/01(火) 15:28:41|
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