仕事部屋

だんだんわたしがいらなくなる。

ユニオン旗揚げとチラシを打ってから、じりじりとそれが躙り寄ってくる。
ユニオンてなんなのか、未だ巧く説明できないのだけど、なんだかわからんままとりあえず名乗っておくというやり方はつまるところいつものやり方で、まあそれでいいじゃないか、人が集まったときにその顔ぶれの中で在り方が浮かぶだろう、そこにふわふわ流されていけばいいと、決して無責任なつもりではなく、あくまでココロザシとしてそう思う、ふわふわやりたいというそれを支えるのは運営スタッフなわけだが。

旗揚げ公演の出演者を決めるという第3期のワークショップには随分と人が集まってきた。
6ヶ月で全12回の長丁場、稽古は少なくとも台本を持つ時間だけはたっぷりある、生半可な集中力では保たないだろう、ワークショップはどう掬い上げようかと考えるのが常だが芝居の稽古はどう突き落とそうかと考えるもので、誰が生き残ってどんな役を獲得するのかサバイバルな面白みもある、ご存知の顔の応募もあるが未知の顔ぶれも多くすでに用意されている台本に全員へのアテ書きで加筆するという課題も愉しみだったりする。

足掛け1年の長篇が300枚ほどで着地を見た。
それでもまだ日々の推敲を重ねているがそろそろ時間で区切りたい、果てしなく直し続ける作品を持つのも執着の美学にはなるだろう、それでもやはり誰かが読んで読むそばからその人の受け止め方で変質していくことの方が格段に面白いと思ってしまう、自分自身を満足させることには余り興味が向かない、といって誰かの満足を目指すのかというとはなからそれは諦めているところもある、ただ、変質するという過程が恋しい、ならば自分の中で永遠に推敲をすればいいじゃないかと、どこかで思ってもいる。

真夜中の弥次さん喜多さん@駒場アゴラ劇場の初日に、変質の面白さを感じた。
10年ほど各地での再演を繰り返しているという作品の初見だが、飲み込んでそのまんまではない何か、かつて何かであったものが今はそうではない何かになりつつある感じ、役者が年を重ねるというだけではない、そういうところに関心が向くことが余りないから、そう感じた自分が新鮮だった、再演かあ、再演ねえ、と思いながら昔なじみの人との思い出話で飲む、先の話をする方が愉しいに違いないのだが初日だからなのか、恐らく誤解に違いないのだけれど私は芝居の人たちが初日から千秋楽までの間ずっと同じ時間に留まっているように思い込んでいる節があって、だからこれまで再演に魅力を感じなかったのかもしれない。

変質は日々にも潜んでいて、深夜勤務を始めてから狂い勝ちだった生活時間も緩やかに変質した。
眠れない苦悶は読むべき本があればやり過ごせるし、寝不足で責任が果たせなくなるような仕事を抱えているわけでもない、勤め人になれない長所は時間のやりくりができることで後回しにしないことを心がければそれなりの日々がちゃんと送れる、やっと自分の生活リズムが掴めてきたというところか、楽になったなあと感じる。

ふと思うのは、変質し続けることは定まらないという停滞なのか、変質への固執は停滞と思うけども。
まあつまり、ふわふわしてたいってことだろう、こんな年にもなって、自分は安定志向だと信じていたけれど、それすら変質するものなんだなあ。



  1. 2013/09/30(月) 21:01:27|
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美しいこと。

掲載や出版の充てがないまま書いていた長篇も気がつけば足掛け1年、あれこれ迷った構成もようやく落ち着きどころが決まり、あとはコツコツ書き足した部分の断捨離とタイトル、書き出したときは「愛のゆくえ(仮)」だったんだけどやっぱり今回も最終的に却下、ブローディガンの名作があるからというだけでなく、映画や演劇のタイトルとしてはアリでも小説の題としてはやはり冴えない。

これまでは一番時間がかかるのは演劇で、次が映画、書く作業が一番拘束時間が短いと決めてかかっていた、愛仮に関しては映画が一番早くて次が演劇、小説に一番時間がかかっているのだが、作られたものが残る時間で言えば小説か映画にだけその可能性があり演劇は跡形なく消え失せる、だからこそなんでもやれる、消失の美学だとも思う、映画が記録の美学だとすれば、小説の美学はなんだろう。

旧い友人が私の著作をごっそり「譲ります」とtwitterで挙げてくれ、引き取り手がいなかったら私にくれと言ったのだが幸い私とは知り合ったばかりの人が欲しいと名乗り出てくれて、代わりに私は笙野頼子をごっそり譲ってもらうことになり、それら書物の受け渡し会と称して飲み席を組んだ、朝方には何十年ぶりかのカラオケで「ひこうき雲」、新橋ロマン劇場での上映も女性客が多かったらしい、水丸こと信幸監督は洒落ものだったしな。

26年前の自分を誰かと共有できる親しみ、同級生とか幼なじみとかに感じるそういう感覚を「母娘監禁・牝」を観てくれた人に対して感じる、そこにあるのが私にとっての「自分」という記録だからだろう、観客にしてみれば26年前の姿とは大分違っている現在の私に感じる懐かしさもなければ映画に残された当時の私は観客それぞれの記録になり得ない、強いて挙げればそこに映り込んだ「あの頃」だけがそれぞれの記憶を結びつける。

ああわかった、小説は「執着の美学」だ。

時代であれ人物であれそれを書き記すための言葉であれ択び抜かれる、演劇や映画を作るときに許される感覚的なものは推敲の名の元に練り上げられて変質し、熟慮の上で択ばれたものしかそこには残らない、そうでないものを残さないため執拗に「本当に相応しいのか」「本当に私自身が択んだのか」と、ディティールだのシチュエーションだのエピソードだのキャラクターだの、文章を作り上げている一語一文字に至るまで際限なく自問を重ねる、その執着の行く末こそが小説じゃないのか。

ははあ、それらにはそんな美しさがある。面白いものだなあ。


  1. 2013/09/25(水) 01:30:33|
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うんざりが相応しい。

5日、スズナリにてtsumazuki no ishi「ガソリンホットコーラ」。

tsumazuki no ishi を観るのは4本目、間には寺十さんと鵺的やって愛仮やって来年もまたやることになって、座付き作家のスエさんには名古屋行ったとき遊んでもらって、うちのWSの連中も何人か引っ張って雑用に使ってもらって、たくさん色んな人を紹介してもらって、劇団員の方々の外部出演の芝居もたまに観て、紹介してもらったスタッフさんとも仕事して、人手の少ないうちの公演では女優さんたちにフル稼働で手伝ってもらったりして、しかも今回は旧い知り合いも出演してて、などなどがあるから私個人の感覚ではとても仲良くしてもらっている劇団で、そういうことも含めると、他の劇団を観るときほどフェアな視点は持てないのかもしれないけれど、だからこそフェアに観たいと思って必要以上に身構えるのも事実で、といってもフェアになれないからって身内意識で観ることもできず、思い返せばいつもなんだか中途半端な視点でぼんやり眺めていたような気がする。

私には芝居を観る目がない、芝居を観ることは私にとっていつでも日常の中の一つの体験で、近所にできた新しい店にぶらっと入ることや、いつもの店でいつもの食材を買うことや、押し入れの整理をしていて失くしたと思ってたものを見つけたりすることや、眠いなあと思いながら渋々に犬の散歩をするのと同じで、特別なお祭りごとや楽しみなイベントと感じることがない、そう言ってしまえば自分が芝居をやるってこと自体がそういう感覚だから、その時点で多分「芝居を観る目がない」んだろうと思っているのだけど、隣りのおばさんの機嫌がいいとか悪いとか、天気がいいから洗濯しようとか、大家さんち改築するらしいとか、あの店やっぱり閉めちゃったんだとか、そういうことと同じように、その日にそこで目にする人々や風景を眺めて、あれやこれやとそれっぽい感想を持つことはできる。

眺めると言うが見えてはいない、私には舞台上の役者の顔が見えない、ただでさえ芝居を観る目がないのに物理的に役者の顔が見えていないので、私にとって芝居を観ることは「観る」のではなく「そこにいて感じ取る」だけのことだ、つまり舞台上で起きている出来事の殆どを目撃できないまま何が起きているのかを感覚で捉えているという曖昧な受け止め方しかできず、負け惜しみっぽく言えば、役者の表情がどんなに素晴らしくても、表情なんてのは心情から生まれるもので、心情ってのは表情以外のところでも充分に感じ取れるわけだから、それを残念と思ったことがないのだけど、目撃していないから情報量がとても少ない、感想を持つにも感じたことをそのまま言うしかなく、結果いつも全体的な印象を茫洋と語るだけになってしまう。

それでも充分に遠い世界の見知らぬ出来事として観ていられたのはそこに築かれている世界観に破綻がないからだろうし、生意気を言えばこの4年で役者さんたちにできることが格段に広がっていて、それはつまりあれこれをトータルした劇団としての底力がぐいと上がったということで、これまでずっと寺十さんがその先頭を全力で突っ走って道筋を作ってきているのは事実で、みんながどどどっと轍に傾れ込んでいく勢いというか闇雲さというか、いい年したお兄さん方の今さらのフルスロットルぶりにただただ唖然とさせられるというか、客演さんに頼ることなく劇団の人たちががっしり支柱になっていることの安定感を、このとき初めて観た。

物語の時空間は捩じれて悪夢のようだけど、スズナリの舞台の上に立っているその人たちの時間はどうしようもなく真っ直ぐでぶっとい。
どれほど歪な物語でもするり誘い込まれて入っていけるのは、その枠組みの安定感あってこそなんだろう。
これまでの数本はふわふわボヤボヤした視点から眺めて何もまともに見えておらずホンに引き摺られるばかりで佇まいがおぼつかず物足りなさや心許なさばかりを感じ取ってきたけれど、捩じれた居心地の悪い世界観をくっきり描くために何より必要なのは、それだったんだなあ。
なんというか、ぐるりと地面に丸描いた内側に、ようやくみんなが走り込んだ感じ。

しかしまあ、やればやるほど次々課題が生じるのがエンゲキ人生なんだろうなあ、この人たちは途方もない道のりをゆくのだなあと考えたら心底からうんざりが湧き上がって、ああほんとにエンゲキって嫌だなあと感じた。
なんでそんなふうに思うのか自分でもわからない、エンゲキが嫌なんじゃなくてこの芝居が嫌だったのかtsumazuki no ishiが嫌なのか、こんなとこでこんなもん観てる自分が嫌だったのか、ともかく「うんざりした」というのが感想で、はっきり貶したつもりも遠回しに褒めたつもりもない、「うんざりした」ことがいいのか悪いのか自分ではわからない、これを観てエンゲキっていいなあとか役者さんを素敵だなあとかは微塵も思わないし「面白かった」と言うのも憚られる、ついつい省略して「面白かった」とか「良かった」とかの言葉を口にしてしまうけど、突き詰めれば少しもそんなことは感じておらず、そしてまたtsumazuki no ishiを観る視点として、それは随分と正しいような気がしている。



  1. 2013/09/10(火) 02:19:37|
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粉砕せよ!

七里ガ浜の公演が始ってから1日も休みのないまま9月に突入と思っていたら8月最後の日と9月になった今日、3週間ぶりの休日が取れ、掃除したり洗濯したり床拭きしたりまた洗濯したり模様替えしたり買い出しに出たり黙々総菜を仕込んだりといそいそ、芝居を観るとか映画を観るとかは仕事感覚なので休みの日には極力行かず、ゆっくり飲みたかった友人を誘ったりすることもたまにあるけれどこれまたなかなか腰が重く、むしろ仕事の合間の方がそうしたことには活動的になれる。

このところ4時間眠れば万歳の不眠気味なので早めにベッドに潜り込んで読書をしながら睡魔を待つ、仕事した日はどうしてもすぐに寝付けずなんとか昼までに眠りたいと焦るのがいつも、アルバイトの出勤もコーチングの現場も遅い時間帯なのですっかり昼夜が入れ替わってしまう、それでも日中に動かないと片付かないことも多く何より日光を浴びる時間がないと精神的にしんどいので、ようやく昼に寝てもムキになって日が暮れる前に起きる。

そんなふうを3週間も続けていたのだから寝溜めしても良いものだが、まずは日常のあれこれを機能させたい貧乏性、寝不足の頭でろくな料理が作れないストレス、床の汚れを視ぬふりしてmacの画面を注視するストレス、安い八百屋まで出向きたいのに近所の割高なスーパーで買い物するストレス、干して乾かす時間はあっても取り込む時間がなくて洗濯できないストレス、あれが切れたこれがないと買い物メモばかりが嵩んでいくストレス、犬が寝付くまで撫で続けていられないストレスなどなどを一気に解消すべく休日は忙しい。

自分に心境の変化があるわけじゃないのに物事がじりじりと変化していく流れを感じることがある、自分史上に残る朝方生活は3ヶ月ほどしか続かなかった、生活時間が変わると思考や嗜好も変わるのか、不意に昔の知人とのコンタクトが増えたり、これまで一線あるが如く距離のあった友人に急速に親しみを感じるようになったり、まさかこればっかりはあり得ないと思っていたことが起きたり、どうにもぶれようのない確信だったはずのことが揺らいだりする。

人は完成も完結もしないんだな、と思う。

そう思うから「あの時ああ言った、こう言った」的な拘りはナンセンスと承知だけれど、それが出てしまうときはそこに縋っているときで、そこにしか縋れないとなるとまあ大概は既にどうにもできない状態であることが多い、そのどうにもできなさが自分のものであればまったくマシだ、他人のそれにつまずくと一歩も身動きが取れなくなる、そんな時にさらさらと変化していく何かの流れを感じられるのはとても具合が良く、そういう時に「運命」という言葉を使えばいいんだと思う。

砂の彫像が風で少しずつ小さくなっていくくらいの、そういう変化を感じている最中だからこそ、自分の中の石っころみたいなものに気付いたりもして、いっそ河の流れにどぶんと投げ捨てるしかないのか、風よもっと吹けと願いながら、その実自分の掌にしっかりと握りしめていたりする、それは多分意地でも維持でもなく意固地というやつなのだけど、それが磨り減っていくと気付いてしまうとたちまちに悲しい、それだけはずっと掌にあって欲しい。

そしてそういう意固地は、どんなにきゅうと握りしめていてもいつか何かの力で指を引き剥がすように掌を開かれて、開いてみたらさらさらと砂が零れ落ちる、護るもののない拳はただ自分に負荷をかけるだけなのに、ただ力むだけでずっと拳を握っていたのかと唖然とし、もう指先なんか痺れちゃって感覚とかなくなってたのに、あの時掌を開いていれば、新しい何かを掴むことも、誰かと手をつなぐことも、落とさないよう救うこともできたのにと、護っていたつもりがただ拳を握った仁王立ちの役立たずで、さらさら飛んでった意固地の砂粒さえ果てしない砂丘の一掬いとなってもう二度と見つけられないと承知だ。

私はそれでもまだ拳を握ってるんだなあ。
多分、いつでも誰かをぶん殴れるように。


『母娘監禁・牝』、今月は新橋・ロマン劇場にかかります。
9月13日〜19日、上映時間はこちらでご確認ください。



  1. 2013/09/01(日) 06:08:47|
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