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仕事部屋

走れない子どもと初舞台。

コーチングのバイトとネタまとめと読書とツイッターのぼやきであっという間に夏休みも終わりだなあ。

土曜には新宿で、タイニイアリス&演戯団コリペ(釜山)共同制作による「女中たち」。 
蜜陽(ミリャン)夏の演劇祭・居昌(コチャン)演劇フェスティバル参加作品
日韓競演「LES BONNES-女中たち」作=ジャン・ジュネ/篠沢秀夫訳 演出=李潤澤
という触れ込みで、日本語バージョンと日韓バージョンと韓国語バージョンの3組が出演、そのうち日本語バージョンにWSに来てくれていた日下嬢が出演というご縁でご案内戴き、うまく時間ができたのでガンホ会のオッパやらと韓国語バージョン、芝居で感動するときは鳥肌が先でじんわり涙が込み上げるのだけど、今回は違った、鳥肌より先にいきなりがつんと胸の中を掴まれて揺さぶられたような不意の号泣、この作品のために新しく翻訳したという日本語字幕は出ていたが、小さいコヤでの照明の都合あって完全には読み取れない、台詞は全編韓国語なのでわからない、ジュネの戯曲も読んでいない、つまり理解をはなから捨ててかかった先の、真っ直ぐに突き刺さるような何か。
役者の顔しか観てなかったけど、そこにその何かがあったんだろう、女中姉妹のおねーちゃんの女優さんに惚れました、会場では品行方正児童会の初期メンバーである清水勉夫妻、小松杏里氏の奥方モンタ女史、もうご無沙汰過ぎていつぶりだか不明な美加里女史などと遭遇、嫌がるオッパに無理矢理通訳させてイ・ユンテク氏にもご挨拶、興奮のまま一ヶ月ぶりの呑者家で抜け出し合流してくれた日下さんも交えてテンション芝居の話やら、こないだの芝居の報告やら、オッパやミキコちゃんと呑むのも久々だったので、大はしゃぎしてしまったんじゃないか、案の定記憶ないまま帰宅、翌朝の通話履歴やメール履歴を確認して蒼白冷や汗と、これもいつものパターン。

翌日曜にはいそいそ出かけて、まつげサロンに勤務するお友達の店に行ってまつげのエクステモデルにトライ、ただでさえギョロ目で普段はマスカラも殆ど使わないから「怖くならないようにしてください」とお願い、出来上がりはなんだかパチクリした感じで自分ではまだ見慣れない。
が、目の故障でちょうど良く眼鏡仕様、眼鏡かけてるとエクステのぱちくりが目立たなくていい、一週間ほどのコンタクト使用禁止令が出されているので、しばらくはお風呂が不便。

さて過ぎての本日月曜、初めての外部作品に演出助手で参加中の小形くんとこも、ガマさんとこの裏方に駆り出されている勝呂もコヤ入りだったはず、しっかり務めているだろうかと老婆心はあれこれ言いたくなるが今は自分の作業で手一杯、終わってからの報告でまた他人事を笑えるのが楽しみだから言わんでおく。
ほんとにねえ、出張を先延ばしにしたにも拘らず原稿作業の時間が思うように取れず徹夜覚悟の3日前発進、いつもいつももっと早くから作業すればいいのにと思うのだけど、どうしてかネタはまとまっているのに3日前くらいにならないと書き出せない、以前はそれでも間に合った、今は作業時の体力が追いつかず、一晩徹夜しただけで目・頚・腰の痛みがひどい、今朝の私はまず整体でごりごりと全身を解してもらい、夕方に眼科でコンタクトの付けっぱなしで眼球に傷がついていると診断され目薬二種が処方、肝心の作業は夕方帰宅してからの開始でぐずぐずのろのろ、やっぱりパワー落ちてるなあと実感、ワードの不調もあるのでほんとにトロトロ作業。

親友のお家事情も多少落ち着いた様子と連絡あって、身の回りの気がかりは少しずつ解けてきたのに、いざとなると自分が動けない、まずは体力、それから精神力、この〆切を越えたら出張して黒い原稿、終わったらほんの出だしで止まっている長編作業を年内に進めたい、その合間に来年の芝居の企画と親友と共にこそこそ進めている謀略実務も引き続き、年明けには芝居のホンの書き下しに入ることになりそうだし、その頃には謀略実務がどれだけ進捗しているだろう、などなど先の仕事のことばかり頭にあって今の作業が気もそぞろなんて、運動会のお知らせに浮かれて眠れずに当日の出番で走れない子どもみたいだ。

このところ持病の悪化を自覚していたのだけど、こっちは一度病院に行くとなかなか帰してもらえないことがわかっているので行くタイミングが見つからない、ひとまずは短編原稿書き上げて、取材と観劇と試写&打ち上げをこなさないと一息つくこともままならない、一息ついたら出張があって…とまた先のことで頭がぐるぐる、一日にいくつもの用事をするのと、先の予定が決まっているのが本当に苦手、といってしなければならないことがあるのにいつそれができるのか未定のままというのはもっと苦手、つまるところ規則正しい生活をして、仕事の時間をきちんと区切るとか、曜日を決めてすべきことを振り分けるとか、某かの工夫をすべきなのだろうけれど、これまた決まったことをきちんとやるのが何より苦手、身の置き所がね、なんだか見つからんのですよ最近、立ち位置ってやつですな、日常も芝居の稽古みたいになってきたのか、いや、芝居のときにはさくっと立ち位置決めてかかれるし狙うこともできるんだけど、日常はそうもいかなくて、あっちでもないこっちでもない、ここじゃ誰かの邪魔になる、あっちじゃ自分が不自由だと立ち位置を探ったままウロウロしてしまっている感じ、初めてワークショップに参加して舞台の上に立った人みたいな状況なわけです、まあね、ある意味自分にとって初舞台な気持ちだからかね、芝居やるときに視る悪夢をリアルで体験しているみたいな落ち着かなさ、立ち位置や動線を振ってくれる演出家がいればなあ、芝居のときは言うこと聞かなくても日常では素直に従うのになあ。
  1. 2011/08/30(火) 04:26:54|
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バカは働け。

ワークショップにくる若い人たちにはよく「当たりを狙うな」と言う。
◎をもらうことを考えずにかかれ、×をもらうことを恐れるなという意味だけど、それは×をもらってもいいってことじゃあない。
経験がないんだから知らなくて当たり前、失敗しても当たり前、とは思うけれど、だからって知らないことや失敗することを当然として開き直られても困るわけで。

そんなことは年齢や経験に関係なく誰にでもわかりそうなもんだが、コレが本当にそう言う側の心情や目的、その場から理解すべきことがまったくわからない、俗にいう「バカ」がいたりする。

自分のことしか見えていない、自分のことしか考えられない、自分の物差しでしかモノごとを測れないのが、俗にいう「バカ」。

何か指示をされたとき、その指示の意味が理解できたというだけで自分基準にできると判断して、その指示がなんのためにされているのかという本質んとこに目が向かなかったり。
何か意見をされたとき、その意見を自分基準で受け止めて心したつもりになって、わざわざ今それを伝えてくれている状況、伝えてくれる人の心情や立場などを推し量ることをしようとしなかったり。

つまり、他人が持つ価値や意味を、想像することができない。
もちろん自分自身のことすらろくに理解も分析もできちゃいない。
「自分がそう思う」というだけが基準になっている。

それって、「世間とわたし」の距離感がないってことなんだろうなあ。

親という存在の価値と力、世の中に於けるお金の価値と力が見えていないのかもしれない。
見えていないってことは距離感がないってことで、そこんとこの距離感が掴めないうちは「世間」が見えないし、世間が見えなければ「世間の中のわたし」も見えない、とまあ、そういうことなんだろう。

「世間とわたし」というキーワードは、かれこれ10年以上前からワークショップで必ず話す。
芝居が「人」である以上、人によって成り立っている「世間」や、その中の「わたし」が見えないことは、致命的だと思う。

新聞読め、映画観ろ、本を読め、人と会え。
好きなものを知るのは趣味、好きじゃないものを知るのが勉強。
そんなことは、何かを志すときに、自然と覚える。

稽古も大事、バイトも大事、酒の席も大事。
それだって、そういう場所に身を置けば必然で選ぶようになる。

で、もひとつほんとに大事なことは、寝てる暇があれば働け。

芝居がやりたいんですと情熱を抱くのは素敵なことだけど、夢を言い訳に怠けてないで、しっかり働けよ。
本を買う、映画や芝居を観る、人と会う、どこかに出向く。
そういうことを存分にするためのお金を稼げよ。
芝居やってるから貧乏で当たり前と開き直ってくれるなよ。
それは本当に不自由かつ信頼ならないことだよ。

バイトがあるからその日はちょっと、とかって時間を切り分けるなよ。
今そこにいることの価値、意味、出逢いをないがしろにしちゃいけない。
やりたいことがあってお金が必要で働くんじゃないのか。
金にならない役割にも責任があることを忘れてくれるなよ。
時間を作ることができない奴に「やりたいんです」なんて甘えられても困るよ。

それができない奴は、人のお金の価値もわからない。
10円でも100万円でも、人からお金を貰うってことの意味がわからない。
他人のお金や時間の価値がわからないうちは世間も見えない。
そういう奴に誰が大事なお金を払うんだ?
そんな奴が客からお金をもらって人前に立っているなんて悪夢だ。
だから、「世間とわたし」。

できるだのできないだの好きだの嫌いだの向いてるだの向いてないだの言ってないで、働け。

まったく、あの頃の私に誰かがそれを言ってくれていたらと、今しみじみ思う。

20年前の私は、芝居で食っていて若くて無知、即ち傲慢。
働きながら芝居をしている人たちを、心底軽蔑して、無能だと思っていて、そう思っていることを隠そうともしなかった。
バイトなんかじゃなくて、一流企業の社員で責任ある仕事をやりながら、それでも好きで芝居をやっている人たちを、どうしてバカにできたのだろうと、今は思う。

私には、彼らのお金と時間の価値がちっともわかっていなくて、ただただ自分のことだけを見て、恥じ入ることすらなかった。
芝居しかしていないからお金はなかったけど、なんとか食えている、それだけに満足していたし、「芝居がやりたいのにどうして働いたりするの?」と、昔のフランスの女王様みたいなことを平気で口にした。
「芝居下手なんだから仕事なんかしてないで稽古しろよ」と、さもそれが正しいことのように喚いていた。

恥ずかしい。本当に、心底、恥ずかしい。

だけど、そういう傲慢さをあちこちで切り売りするそれが私には「働く」ことだった。

結局、あの頃の私は働くことを時間の切り売りとしか捉えていなかったんだと思う。
私が働いて受け取るお金は、誰かが血を吐く思いで働いたお金だと、気づいていなかった。
求められる場所に自分の身を置くことが精一杯で、役割や責任なんてその実少しも果たせていなかったかもしれない。
少なくとも、彼らがどんな思いで芝居をやっていたのか、あの頃の私は慮ることをしなかった。彼らのしんどさや歓びが、想像できなかった。

まったく恥ずかしいことに、私が生活のために働くという経験をしたのは、つい半年前で、未だその自分が世間での役割を果たしているかの自信は持てない。
結局、私は時間の切り売りをしているだけで、自分の時間をどこに売るのが有益かと考えるばかりのような気がしている。
世間につながっているだろうかと考えると、やっぱり俯いてしまう。

だから私も偉そうなこと言えた立場ではないのだけど、君たちより先に気づいたから教えてあげる。

すでに「バカ」である君たちが、その無能さを解消するには、血を吐くまで働くしかない。
もちろん稽古や飲みの席を疎かにしちゃいかんし、本を読んだり映画や芝居を観たりする時間は何を差し置いても作らにゃいかん。
とすれば、削れるのは飯と睡眠しかないじゃないか。

それで壊れる身体だったら、そりゃ使いものにならんてことだから、さっさと淘汰されてしまえばいい。
就職してきっちり「世間」に結びつくのは早い方がいい。
求められることに応えるだけの努力ができないってことは即ち無能ってことで、そもそも無能な人の居場所はない。
自分にできる努力の範疇で生きていくなら「世間」の方がずっと温かい。
第一、稼げないバカより稼げるバカの方が、人としてマシじゃないか。

ついこないだまでの私は君らと同じくらいバカだったけど、たった今の私は今の君らほどバカじゃないから、言うこと聞け。



  1. 2011/08/26(金) 09:25:33|
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犬師、曰く。

日々の節目に交わす女友達との会話。
打ち合わせの隙間に覗ける担当氏の笑顔。
メールで不意に囁かれる甘い気持ち。
朝早くから届けられる真摯を綴った手紙。
インターネットの隅っこで語られている誰かのささやかなシアワセ。

(小形くんが拾ってきた)ヤカン、(中古で買った)冷蔵庫、(龍さんが買ってくれた)洗濯機、(使い勝手のいい)箒、(使い勝手のいい)ハサミ、(苦くない)胃薬、(大事なことを書くときの)ボールぺんてる、(絶対に手放したくない)真鍮のライター、(犬が定着している)古い椅子。

目覚めてから眠るまでが、そうした欠片で繋ぎ止められているんだなあと、しみじみに思ったり。

朝流れるラジオの音楽の中にも、深夜に見入る映画の風景の中にも、忙しなく読みさす本の物語の中にも、開け放した窓から忍び込む見知らぬ人の日常にも、記憶にも空想にも、滲む色。

与えようと引き出すものでなく、与えられたいと望むものでもなく、ただそこにあるだけの。

そう過ごしていたいと、ずっと思っている。
そういう人でありたいし、そういう時間を重ねたい。
なかなかに難しいけれど。

犬は容易くそれをこなすので、とうとう、教えを乞うた。
賢い犬になるために。

逃げない。追いかけない。壊さない。奪わない。確かめない。探らない。疑わない。試さない。
怖がらない。誤摩化さない。待たない。怠けない。急かさない。匂わせない。忘れさせない。
…そうできれば、たまには吠えても、いい、と、思う。

師はそのように語る。



よっしゃ、わんわん言うたるどー。



  1. 2011/08/24(水) 04:11:26|
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言葉≠こゝろ

人を知ろうとするとき、言葉というのはなんと頼りないものなのだろう。
日々の中でどれほどの言葉を交わしても、人を知ることはできない。
なのに、知らぬ人を想うときは、いつも某かの言葉を手がかりにしてしまう。

言葉の欠片に、誰もが、自分のこゝろの、視たいものを視る。
知りたいことを知る。
信じたいことを信じる。

通じる言葉を持たない犬猫の表情から、勝手に意味を読み取るのと同じこと。
「言葉の力」なんて言うけれど、実のところ、受け止める人のこゝろの力に頼るばかりじゃないか。

無力を感じる柔なこゝろには、返される言葉がずぶずぶとめり込む。
私のこゝろがそうでなければ、その言葉をそれほどに暖かく感じないだろうに、今は森の中の遠い灯りのように、それだけを見つめる。

そうと伝えてくれるこゝろ。
そうと伝えようとしてくれるこゝろ。
嘘やほんとや真意の手前にある、小さな事実を蝶番に、言葉を追う。

文字より言葉、言葉より声、声より気配、気配より空気。
より信じられるものは、より形がない。

芝居だの小説だの、自分の中の真実を作り替えることばかりしているから、見失ってしまったのかな。
いっそ全部ニセモノと思えば、楽しめるのかもしれない。
それとも、そのときにもやっぱり、探し求めるだろうか。

考え無しで口にした言葉の欠片が、ある人のこゝろには跳ね返され、また別のある人のこゝろには染み渡る。
選び抜いた言葉一つにしても、行方に違いはない。
物語すら無力なのだとしたら、筋道のつかないそのままの言葉に、なんの力があるのかと、言葉のこちら側で成す術無く立ち尽くすばかりで。

自分のそれに気づいていながら、誰かに何かを伝えようとまた手元の言葉を手繰って、ひたすらに重ねる。
文字を書き連ねる自分も、必死で喋り続ける自分も、バカみたいだ。

あれだ、たぶん言葉ってのは、意味を持つ記号なんかじゃなくて、音として発せられるこゝろの現象なんだな。
だから、打ち捨てられても跳ね返されても別のものにすり替えられても、湧き上がる。
こゝろの老廃物。

いや、そういうとまるで価値がないみたいで淋しいから、
働く脳細胞から吹出す蒸気みたいなもんだと思えばいいのか。

ぷしゅ。
  1. 2011/08/21(日) 09:06:23|
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0819.

沈思黙考を心がけた途端に次々と頭の中の整理がつき、気持ちもだいぶ落ち着いた感じ、まあそもそもそれほどにどうってあれじゃなかったんだけども、仕事のことが常にぽこぽこ湧き出している頭に慣れているせいか、どうにもならないことぐつぐつ煮詰めて考えてる状態はなんだか自分じゃないようで落ち着かない、恋愛なんてのはどうせどうにもならんものだと開き直るより先に、自分らしい日常の落ち着きを取り戻せたところで何かに打ち勝ったような気分になる。

打ち合わせ前後でネタ探しと資料漁り、あんまり先のことに興奮してると辿り着く前に萎えてしまうので、急ぎ押さえる必要があるところにだけ触れてしばし寝かせる、目下すぐにも着手の必要があるのは月末〆切の短編だが、これは書く時間ができるまでは粘ってネタ転がし、その手前で片付ける案件にはワークショップや小説教室やコーチングのレギュラーワーク。

ワークショップの方は夏休みのせいか若い人の申込が多いので、改めて芝居の入り口、ココロザシんとこからやっていく所存、というのも、このところ若手に稽古場付きやら代役やら本役抜擢やらが続き、温かな心遣いで次の現場のお声かけを戴いたりもするのだが、とてもじゃないが安心して送り出せる状態ではない奴らばかり、芝居云々以前の問題ばかりが露見して、やはりアンダー30は人にあらずと思っていたところなのでなんとか手を打たねば、劇団じゃないし出入り自由だしでモチベーション高めを狙っているのに、そこにさえ居着けず続けられない奴がいるのも問題で、休ませたくないから参加費を割り引いたりするんだけど、そうすると泥を被るのはスタッフと主催なわけで、儲けるつもりはないが赤になったら続けることができないんだぜなどと考えると、ぼちぼちWSも休止すべきかと思ったり、しかし誰も育たないまま休止するのはつまらんなあなどとも思い、自分自身が芝居に足場を取り戻しつつある時期だから、尚のことに悩ましい。

小説教室はただただ楽しみ、入門編なのでそうすぐには作品に辿り着かないだろうけど、今期の受講生の皆さんは大変熱心なので楽しませてもらっている、また以前のように懇親会をやりたいものだが、どうしてか小説を書こうという人は余り社交が得意ではないらしく、以前の懇親会にはWSの子が数人いたのでなんとか座が保った感、小説書くってそういうことなんだろうかと、我が身を振り返って反省を試みたがわからなかった。

で、龍昇企画と鵺的の合間に思いついた長編案を、ようやく書き始めた、いやだから目下すぐにも書き始めるべくは月末の短編なのだけど、長編案はなんだか一瞬だけ気持ちが離れてしまったので放置していて、沈思黙考効果によって新しい切り口を思いついたのでちょろっと試したところ、これなら書けるという案配で、本腰入れちゃうとバイトにも行けなくなるし今月は短編も取材旅行もあるしで全部ダメにしてしまいそうだから、気持ちが離れない程度と心がけて恐る恐るに1枚ずつとかの作業、長編は当初から年内目標なので、踏ん張る。

他にもタイミングを見切らなきゃならない雑務など抱えているのだがこれまた恋愛と同じで一人じゃ何も決められない類い、連絡取れない間のじりじりだけが恋とは違って直接のダメージ、いつもとは違う役回りだからこれでもプレッシャーを感じている、しかしまあ責任あるところにはそれ以上の楽しみも隠れているに違いない、ダメ元での提案なので悲観的ではあるけれど、その分良い方向に答えが返ってきたら大はしゃぎだ。

運勢というか自分の力でどうこうする以上の人生における調子の波てのは多少あるんだろうなあ、調子悪くなるのは基本的に自分のせいだけれど、それが上がっていくときは、人様のお陰だから。

などと、いつもより少しだけ殊勝な気持ちで、44歳の誕生日を迎えた。
誕生日に贈られて嬉しかったフレーズは「礼儀正しいやんちゃ娘」。
ままならぬものも、ままなるものも、全部ひっくるめて抱えてやれ。
そして沈思黙考を心がけよと。

また1年生き延びた。また1年生き延びる。

  1. 2011/08/19(金) 03:00:19|
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0815.

娘の誕生日。
自分の落ち着かない状況の中でうっかり忘れそうになっていたけど思い出した。
昨夜、「明日どうしてんの」とメールしたら「デート」だって。
なんかムカつく。
  1. 2011/08/15(月) 14:33:09|
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熟女にして荒野を目指す。

久々にブルーハーツ・ブログを更新、昨日から5日連続で投稿、朝9時更新。

こっちもこの頃すっかりサボってしまっているけど、あっちのブログはもっと放置していて、そもそもがlivedoor携帯小説「ブルーハーツ」との連動で始めたブログだったのを連載が終わっても「オトナの恋バナブログ」にリニューアル、つまりそうそういつもいつも恋バナに浮かれていられるわけじゃない、という現実的な放置。

自分が書いた過去のブログ記事を読み返すと、へえ、と感心することが多い。
なんだ、ちゃんとわかってんじゃん、と。
そんで、わかってたはずなのに、なんでまた同じことやってんのさ、と呆れもするけれど。

こっちのブログは小説のこと芝居のこと日常のことがメインで、読み返すと、最近の自分が如何に色んなことをサボっているかと思い知らされる場合が多く、割としょっちゅう過去記事を読む。

でも、ブルハブログはそのときどきの恋愛沙汰を周囲に特定されないよう暈して書いてたりするので、読み返すのはこっ恥ずかしく、殆ど読み返していなかった。

けどまあ、読み返しました。
そんでやっぱりこっ恥ずかしい思いをしましたが、感心もした。
なんでいちいちこんなに巧く折り合いつけてんだ、と。
どうにも折り合いがつかないのが恋愛のはずなのに、なんだか妙にわかったふうに折り合いがついている。

だから、読めば感心するのだけど、現実を振り返ると、何でまた同じことやってんだと呆れる。
頭の中だけで折り合いをつけているから、そうなってしまうのだとわかる。
気に入って読んでくれている方もいるからがっかりさせてしまいたくはないけれど、やっぱり私は恋愛に対して不正直だなあと反省。

ふいっと誰かを好きになって、関わりたくてあれこれ企むけれどどうにも成果が出ずにいる状況、つまり自分の気持ちばっかり見てるから現実が見えてない。

それでまた、いつか自分が逆の立場で大層困惑したことを思い出したりする。
似たようなことだよなあと思い当たって、その時の私がどれほどその人と関わることを面倒臭がっていたか、どれほどその人にうんざりしていたか、その人が自分の気持ちに正直になって一生懸命にそれを伝えてきてくれるたびどれほど息苦しくて堪らなかったか。
あの時の私が、もしその人に対して特別な気持ちでいたら、そこまでさせずに自分から向き合っていたと思う。

てことは、それが答えじゃん。

いや、最初っから脈無し危篤状態での開き直りだから、見えてたはずの答えなんだけど、そこに視点を定めずに自分の気持ちばかりを見ていた。

ダメですなあ、オトナとして。

うまいこと人生をやってるつもりになっていると、恋愛に拘らずそういうダメさが尽く露呈して、自分自身にがっかりすること度々。
気持ちが萎えるのはモチベーションとか誰かの対応とかじゃなくて、自分に対する失望のせいだったりする。
だから、もうあれこれ騒ぎ立てずに静かにしていようと戒めたりもするのだけど、すぐにこうやってぐずぐずああやってうだうだと言葉を吐き散らしてしまう。
「不器用ですから」の無口も確かに不器用だろうが、理屈先行の言葉頼みってのもやっぱり不器用の一種なんじゃないのか。

私はきっと20代の頃の方が、もっとハードボイルドだったのに、今はそこそこに年取って厚顔無恥とは逆に上っ面が薄く軽くなって、明け透けにべらべらと言葉を並べ立てている。
なんだろう、ブログとかツイッターとか、自分の言葉を簡単に垂れ流せるツールが手元にあって、そこに流し込めば誰かが賛同してくれたり共感してくれたりするからなのか。

そもそも私の言葉は商売道具のはず。
これまでにだって何度も、言葉頼みを反省して犬猫に憧れてたんじゃないのか。
ハードボイルドに育って言葉を信じなかったから、小説を書き始めたんじゃないのか。
言葉にならない隙間んところを信じて、芝居やってたんじゃないのか。
言葉で説明できない形を見つけたから、映画やるんじゃないのか。

恋文一通を最後にして、目指せ、沈思黙考
3度目のハタチに向けてのココロザシ。

ま、ちょっと泣きたい気分だけども。


  1. 2011/08/14(日) 03:16:02|
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日常の気配。

その後、雷やら豪雨やら猛暑やらをだらだら過ごしております。

まず3日ほどは日常に戻れずで、ひたすらに食べて寝て食べて寝て誰とも口を利きたくないモードで過ごし、ようやっと掃除やら洗濯やら買い物やらを片付け始め、仕事のメールなどもぼちぼち返信し、リハビリで小形くん誘って青山に出かけたりなんかしてみて、そしたらまただらだらしたくなって、更に気合いの入っただらだらを続け、昨日は龍さんと来年度の話をして、帰りにぶーちゃんのはちに寄ったら沖田乱なんぞと出会して上機嫌になり、またも徘徊モードになってもの凄く遠回りして帰宅してすぐ犬を連れて近所を徘徊して、ナーバスになっている友人からの電話に無神経丸出しで喋り倒し、朝方まで犬を相手にプレゼンをし、そんな感じが私の日常さねと我にかえって、気づけばベランダのゴーヤがいくつも実り、犬の爪も伸びており、弟子たちは皆それぞれ力試しの場へと出向いており、共演者たちも粛々とした日常や次の何かに向けての時間を始めており、柄じゃないので反省はさっさと振り切って、おためごかしに芝居のネタや短編のネタをいくつか考えてみたりもし、いくつか打ち合わせの予定を入れ、あてにならない約束を待ち、飢えのままにDVDを観散らかし、頭の中の謀略を整理し、すべてを反芻し、検証を重ね、ほどほどに諦め、削げない何かだけを確信し、ズッキーニを糠味噌に漬け、明日からまたバイトに戻るわけで、そうこうするうちに娘の誕生日がやってきて私の誕生日がやってきて、結局は意識がどこにあろうが日常の渦にすべて飲まれていくんだろうと。

それにしてもどうして私は小説を書かないのだろう。

  1. 2011/08/11(木) 01:33:54|
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見送り三振。

身体の疲れは一日休めばそこそこに回復するのだけど、消耗し尽くしてしおしおに萎びきってしまったこゝろがどうにも取り戻せない。

「本当の自分の価値について真摯に向きあうことが、人間の教養だと思う。」という蜷川幸雄の言葉に従ってみたりする。

寺十演出と勝負できずに終わった【昆虫系~改訂版】。

気づいたときには手遅れで、あっさり一塁に送り出されていた感じ。
コツンと当ててみたかったんだけどなあ。

演出の指揮によって創りだされた時空間に身体を置くことは心地良く、役者たちの真摯さが居場所になった。
稽古は楽しかったし、宴席の揉め事もなく、勉強にと連れて行った勝呂の存在以外には苛立たせられることもなく、挙げ句に全ステージ完売の満員御礼となれば奇跡の座組と信じられる。

丁寧に書き込まれたホンも好きだ。
しかも私が演じた役は私に充てて改訂してくれている。
演出家には抜群の技術と知恵があって、最初から全面的に信頼した。
もちろん、稽古が始まってもそれらが裏切られることはなかった。

放置演出にはたびたび出くわす。
何も言われないことで何をさせようとしているのかを読むのも役割だと思うから耐える。

ダメならダメが出るだろうから演出を待つことはしない。
自分にわかる程度の範疇でも、すべきことは沢山あるから、手持ち無沙汰になるわけじゃない。
やりたいことは全部やらせてくれたし、視てくれていることは確信できたから、そこに不安はなかった。
そのままそこに置いておくというのも確かに演出の一つだから。

実際、稽古場で私の役の為に某かの時間を割いていたら仕上がりが間に合わなくなっていたかもしれないし、今回はそういう役どころであったわけで、何も不当なことではない。

当然ながら結果が悪かったとは思っていない。
お客様の大切なお金と時間を戴いて見せる形としての出来はまったく悪くなかったと自負している。

だけど、私が自分のやったことに満足できているかというと、できていない。
自分がやろうとしていたことに辿り着けなかったことが、探り続けたままで終わってしまった私が、きっと演出には見えていたはずだ。

作品としてそれがOKであれば、何も言わないだろうとも思う。
だから、そうした演出方法に不満が残ったわけではない。

ただ、二度と組めないかもしれないのに残念だなあとちょっと思い、それってつまるところ、コイツに係うと稽古が色々面倒なことになると思わせてしまったのかもしれないなあ、と今更に自分の傲慢を恥じている。

寺十さん、スイマセンでした。

と打ち上げでしっかり伝えれば良かったのに、私と寺十さんはとうとう打ち上げでは一言も口を利かなかったような気がする。
いや、ちょっとは言葉を交わしたかもしれないけれど、記憶するような会話じゃなかったと思う。
酒の勢いで演出に絡むタイプじゃないしなあ。
まあ、珍しく眠ってしまったので、そのへんには自信がないけれど。

いつかしっかり伝えます。
願わくば、ぶんぶんやって気持ちよく三振できる打席が回ってきますように。


【昆虫系~改訂版】ご来場下さった皆様、どうもありがとうございました。
  1. 2011/08/04(木) 02:40:46|
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本日、最終日。

おかげさまをもちまして、全ステージ完売、追加公演も50席を超える盛況で、【昆虫系~改訂版】本日が最終日です。
マチネ公演15時、ソワレ公演19時とも当日券はキャンセル待ちのみ、ソワレは千秋楽につきキャンセル待ちも厳しい状況と制作より報告がありました。
自由席ですので、本日のチケットをお持ちのお客様はどうかお早めに受付をお済ませ戴けますようお願い致します。

久々どっぷりの役者生活だったからなー...
終わったらどうなるかなー...


  1. 2011/08/01(月) 12:37:15|
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